連続企業爆破事件

連続企業爆破事件 昭和49年(1974年)

 昭和49年8月30日昼の0時43分、東京丸の内の三菱重工本社ビルの玄関近くに仕掛けられていた時限爆弾が大音響とともに爆発。丸の内のビル街は、昼食帰りのサラリーマンやOLでにぎわっていたが、彼らは爆風で吹き飛ばされ、砕け散ったガラスの破片で血まみれとなった。路上に止めてあった小型トラックは原形をとどめないほどに破壊され、現場一面には白煙が立ちこめ、この爆発で8人が死亡、385人が重軽傷を負った。

 この爆破が起きる5分前、若い男性の声で「ビルに爆弾2個を仕掛けた。これは冗談ではない」との予告電話があった。この電話を受けた電話交換手(55)が課長室へ報告に向かう途中で爆弾が炸裂した。

 玄関のには40キロの時限爆弾が2個置かれ、その威力はダイナマイト700個分に相当していた。警視庁は1600人の機動隊を出動させたが、ガラスの破片が降り注ぐ現場の救出は困難をきわめた。この無差別テロに国民は怒り、卑劣で凶悪な犯人を非難した。

 爆破事件から1カ月後、東アジア反日武装戦線「狼」と名乗るグループが「三菱重工は商売の陰で、植民地の死肉を食らう日本帝国主義の大黒柱である」と犯行声明文を出した。三菱重工は、朝鮮戦争やベトナム戦争によって巨大な企業となり、米軍の武器部品の製造や自衛隊の兵器製造契約の約20%を占めていた。同社が軍需で儲け、権力と癒着していたことはある程度は事実であるが、犠牲となったのは罪のない一般サラリーマンやOLであった。無差別テロを正当化する声明文に怒りを感じない者はいなかった。

 日本人でありながら、反日を名乗る「東アジア反日武装戦線」という新左翼集団による無差別テロであった。学生運動が急速に衰退するなかで、武装路線で革命を目指す赤軍派とは別に、法政大学を中退した大道寺将司が、独自の反日思想から武装路線をとるようになったのが、いわゆる黒ヘルグループとよばれた極左団体であった。沖縄やアイヌを含めた東アジアへの侵略から、独自の反日思想を生み、支配層だけでなく市民や労働者も日本帝国主義の構成分子として打倒すべきとした。学生運動では目的を達成できず、彼らはその刃を一般国民に向けたのである。

 東アジア反日武装戦線は「狼」「サソリ」「大地の牙」の3グループによって構成されていた。狼(大道寺将司、大道寺あや子、片岡利明、佐々木規夫)は資本家に苦しめられている民衆を絶滅したニホンオオカミになぞらえ、さそり(黒川芳正、宇賀神寿一、桐島聡)は猛毒で大資本を倒すサソリになぞらえ、大地の牙(斎藤和、浴田由紀子)は国家や資本家に立ち向かう大地の牙になぞらえていた。

 「狼」は当初、三菱重工ではなく昭和天皇の命を狙っていた。昭和48年8月14日の未明、那須のご用邸から天皇・皇后陛下がお召し列車で帰郷することを知ると、東京都と埼玉県の間にある荒川鉄橋を爆破して殺害する計画(虹作戦)を立てた。だが当日、鉄橋付近の人影を私服警官と間違えて鉄橋爆破を断念。その翌日、韓国で在日朝鮮人・文世光が朴正煕大統領狙撃事件を起こし、「狼」はこれに衝撃を受け次の闘争の準備に取りかかった。それが三菱重工本社爆破だった。

 「狼」はその後、企業を狙った爆破事件を次々に引き起こした。昭和49年10月14日、東京・西新橋の三井物産本店(18人が負傷)を爆破。以後、東京都日野市の帝人中央研究室、中央区銀座の大成建設本社ビル(9人が負傷)、江東区東陽の鹿島建設内装センター、港区北青山の間組本社、埼玉県与野市の間組大宮工場横、中央区銀座の韓国産業経済研究所、兵庫県尼崎市神田北通の尼崎オリエンタルメタル、千葉県市川市の間組江戸川作業所、江戸川区小岩の横河工事会社に次々と爆弾を仕掛けた。

 捜査は困難をきめたが、それは犯行グループが平凡なサラリーマンを装い、都市ゲリラ兵士として「隣人との挨拶は最低限必要」などと、一般市民の中に紛れ込んでいたからである。しかし昭和50年5月19日、潜伏中の7人が一斉に逮捕された。荒川区南千住のアパートで大道寺将司(26)と大道寺あや子(26)夫婦が、江東区亀戸のマンションで斉藤和(27)と浴田由紀子(24)が、さらに黒川芳正(27)、佐々木規夫(26)、益永利明(26)が東京で逮捕された。また荒井まり子(24)が仙台市で逮捕された。犯人たちは青酸カリを隠し持ち、大道寺あや子は手錠をかけられようとしたとき、青酸カリを飲もうとして捜査員にたたき落とされたが、斉藤和は取調室で隠し持った青酸カリで自殺した。

 犯人グループは「腹腹時計」を作成し、そこには爆弾の作り方から生活上の注意まで詳しく書かれ、活動家や一部の書店に送付されていた。捜査当局はアイヌ解放に関係していた斉藤和を徹底的にマークして、芋づる式に一斉逮捕にこぎ着けたのである。

 この一斉逮捕で、爆弾テロは終息するかと思われたが、その後も爆破事件は頻発した。東京都立川駅北口派出所、国鉄名古屋駅西コインロッカー、小金井公会堂前、北海道警本部(5人負傷)、沖縄海洋博会場、高円寺駅前派出所裏、銀座の三原橋派出所、練馬区の小竹町派出所裏、港区の赤坂御用地南門付近、北区の赤羽の路上(1人死亡、1人負傷)と爆破は続いた。さらに、渋谷区代々木駅前派出所、千駄ヶ谷駅前派出所、杉並区の荻窪駅南口派出所、静岡市の安倍川農業用水取水口、大阪の三井物産ビル、このように爆弾テロはやむ気配がなかった。

 昭和50年8月4日、日本赤軍がクアラルンプールで米国大使館とスウェーデン大使館を占拠、人質との交換で佐々木則夫が釈放された。9月4日には横須賀の緑荘アパートで爆弾製作中に誤って爆発し、5人が死亡し8人が負傷している。

 昭和51年3月2日午前9時、北海道庁1階ロビーで時限爆弾が爆発、道庁職員2人が死亡、95人が負傷し、三菱重工ビル爆破事件に次ぐ惨事となった。地下鉄駅のコインロッカーから「東アジア反日武装戦線」の名で「道庁に群がる占領者はアイヌの土地を強奪してきた」と書かれた犯行声明文が見つかった。一方、アイヌたちは「テロリストの活動に、アイヌが利用された」と非難した。この道庁爆破で大森勝久が逮捕された。

 昭和52年には京都の梨木神社、大阪の東急観光、東京大学法文学部1号館、三井アルミ社長宅、渋谷の神社本庁、東本願寺が爆破された。昭和52年9月28日、日航機が日本赤軍の丸岡修、佐々木則夫らに乗っ取られ、ダッカ空港で乗員・乗客141人を人質に、身の代金16億円と赤軍派奥平純三、東アジア反日武装戦線の大道寺あや子、浴田由紀子ら9人の釈放を要求。福田赳夫首相は「人命は地球より重い」として、6人(3人は出国拒否)と身の代金を渡した。日本国内では福田首相の超法規措置は問題にされなかったが、世界各国からは日本政府の弱腰に非難の声が上がり信用を失墜させた。

 昭和57年7月12日に宇賀神が逮捕。昭和58年5月18日、道庁爆破の疑いで加藤三郎が逮捕。平成7年3月4日、浴田由紀子がルーマニアで身柄を拘束された。

 東アジア反日武装戦線は天皇陛下暗殺を計画し、多くの市民を犠牲にしたが、彼らの思想は理解しがたい。日本は明治維新以来、台湾、朝鮮、中国、インドシナ諸国などに侵略し、その利益を築いたことは事実である。戦後は企業が海外に進出し、貿易によって日本の社会構造を形成したといえるが、それを企業侵略と呼ぶかどうかである。

 東アジア反日武装戦線は、「企業侵略によって搾取されている国々の労働者から、企業侵略を阻止するのが目的」と主張し、日本の「原罪」を告発するため一連の事件を起こしたとしているが、その考えには強い異質性を覚える。

 大道寺将司、益永利明、大森勝久は死刑、浴田由起子は懲役20年、加藤三郎は懲役18年、黒川芳正は無期懲役、荒井まり子は懲役8年が確定している。東京地裁の山室恵裁判長は「社会を変革しようという正義感から行ったものであるにせよ、自分たちを絶対視し、爆弾攻撃という過激な手段を選んだ独善的、短絡的な犯行で、非難を免れない」とのべた。