連合赤軍リンチ殺害事件

連合赤軍リンチ殺害事件 昭和47年(1972年)

 昭和47年2月28日、全国民がテレビの前でかたずをのんで見守っていた「あさま山荘事件」が10日ぶりに解決した。管理人の牟田泰子さん(31)が人質になり、警官2人、民間人1人が犠牲になったこの事件は、機動隊の強行突破によって終わりを告げた。ところが、「あさま山荘事件」の解決は、連合赤軍による陰惨なリンチ事件発覚のエピローグにすぎなかった。

 連合赤軍による総括殺人が明るみに出ると、人々は大きな戦慄と衝撃を覚えた。静粛殺人が発覚するまでは、彼らの死をかけた革命路線、反権力主義に心情的に賛同する者もいたが、彼らの狂気じみたリンチは国民の支持を消失させ、大学に吹き荒れていた学生運動の息の根を止めた。連合赤軍29人のうちの約半数の14人が、総括(過去の自分への清算)によって残虐なリンチを受け殺害されていたのである。

 事件発覚のきっかけは、アジトに残されていた鋭利に切り取られた衣服だった。捜査官はこれを遺体から衣服を脱がすときの切り方と直感。逮捕された赤軍派の奥沢修一に衣服を突きつけると、犯行の一部を供述した。

 昭和47年3月7日、群馬県警は下仁田の山中に埋められていた若い男性の遺体を発見、被害者は赤軍派幹部元京大生・山田孝(27)であった。山田は赤軍派幹部であったが、穏健派で武装方針に批判的だった。そのため裏切り者としてリンチを受け、全裸のまま手足を縛られ、零下15℃の野外の柱に縛りつけられて凍死した。遺体の写真を連合赤軍最高幹部・森恒夫と永田洋子に見せると異様な反応を示した。

 山中のアジトの中で、永田と森の気に入らない者は、規律違反、日和見主義、反共産主義的などの理由で次々にリンチにかけられた。「総括」の名の下で、殴られ、蹴られ、縛られ、極寒の中で凍死していった。2人の命令は絶対で、命令に逆らう者、異を唱える者、動揺を見せる者はリンチを受け、リンチに参加しなければ自分が裏切り者とされて次ぎに処刑された。

 総括を決める人民裁判は7人の中央執行委員によって行われた。中央執行委員の委員長は森恒夫、副委員長・永田洋子、書記長・坂口弘、委員は坂東国男、吉野雅邦、寺岡恒一、山田孝であったが、実際には委員長の森と副委員長の永田が判決を下し、他の5人がそれに同調するだけだった。榛名山のアジトでは、12月31日から半月の間に8人が殺害され、遺体は榛名山の山林に埋められた。

 尾崎充男(22、東京水産大)、進藤隆三郎(22、秋田高卒)は反革命的という理由で殺された。小嶋和子(22、市邨学園)は永田に「寝ていると、加藤能敬(22、和光大)が変なことする」と訴えたが、永田に「あんたにも責任がある」と言われ、暴行を受け小屋の外で凍死。加藤は、小嶋と情を通じたとして殺害された。この加藤の殺害には、加藤の未成年の2人の弟によって行われた。遠山美枝子(25、明治大)と行方正時(22、岡山大)は異性関係を理由に、山崎順(21、早大)は逃亡の恐れがあるとして殺害された。1月15日、中央執行委員であった寺岡恒一は、「この調子ではいつ自分がやられるか分からない」と坂口弘にしゃべったことから総括となった。

 1月中旬、岩田半冶(21、東京水産大)が榛名山ベースから逃亡。もし岩田が警察に逮捕されればアジトが分かってしまうことから、群馬県沼田市上発知町にアジトを移動することになった。1月30日、山本順一(28、会社員)は妻の保子への態度がブルジョア的と批判を受け殺害され、大槻節子(23、横浜国大)、金子みちよ(24、横浜国大)も殺害された。吉野雅邦の妻である金子は妊娠8カ月だったが、物質欲が強いことを理由に手足を縛られ凍死した。山本保子(山本順一の妻、22)は生後3カ月の乳児を残して逃亡、中村愛子(22、日大看護学院)と前沢虎義(24、工員)も逃走した。処刑を下す永田には、女性同志への異常な嫉妬心が下地にあった。

 2月上旬、碓氷郡松井田町の山林に妙義山ベースを設置。16日、妙義湖畔でレンタカーが立ち往生して奥沢修一と杉崎ミサ子が逮捕された。幹部たちは武器弾薬や食料、最低生活必需品を背負って山越えを決行。その翌日、永田と森は山狩りの警察隊に逮捕された。リーダーの逮捕をラジオで知った青砥幹夫、植垣康博、寺林真喜江、伊藤和子の4人は、軽井沢駅で逮捕された。最後に残った坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、加藤倫教、その弟のMの5人があさま山荘に乱入し銃撃戦となった。

 昭和48年1月1日、森恒夫は司法の裁きを受けることなく、「唯銃主義は誤りだった」と遺書を残し、東京拘置所で自殺。自らの理念を語らず、自らの責任を全うせず、自らの命を絶った。

 連合赤軍の戦士たちは、自分たちの理想とする共産主義、世界同時革命、反米主義を実現しようとしたが、その理想を支える理論は妄想に近かった。本来、総括とは闘争の最終的結論として用いられていたが、連合赤軍では処刑を意味していた。総括は革命の名前を借りた森、永田の独裁的ヒステリーによる処刑で、連合赤軍は山岳アジトでの3カ月間、ささいなことで殺し合う凄惨(いんさん)な集団となっていた。

 恋愛が反革命とされ、女性が化粧をしただけで拷問を受け、処罰に反対する者も凍死あるいは撲殺された。同志の半数が殺戮され、身元が分からないように髪を切られ全裸で埋められた。これは主義や思想によるものではない。同志への愛のかけらもなく、狂った指導者による処刑であった。彼らが尊敬する毛沢東の文化大革命における虐殺、毛沢東主義の継承者たるポル・ポトの虐殺を思い起こさせた。