脳組織摘出の人体実験

脳組織摘出の人体実験 昭和47年(1972年)

 20世紀初頭の精神医学は、病気の診断だけで、治療と呼べるものはなかった。この流れを変えたのは「社会的適応」であり、「ショック療法」であった。社会的適応は、精神病患者を社会に適応させながら病気を緩和する方法で、ショック療法とは脳に激しいショックを与えて現実に取り戻そうとする方法であった。ショック療法にはインシュリンを与えて低血糖にするインシュリン療法、頭部に電流を流してけいれん発作を人為的に起こさせる電気ショック療法があった。さらに新しい精神病治癒としてロボトミー(精神外科)が注目された。

 昭和37年、ポルトガル・リスボン大学のモニスが精神病患者の大脳の一部を切断して精神状態を改善させる治療法を考案した。モリスが考案したロボトミーは、精神病を治すのではなく、精神病患者を社会に都合よく無気力にさせるものだった。犯罪者を精神病院に入れ、脳の一部を削除して暴力的な性格は消えれば、社会にとって都合が良かった。犯罪を繰り返す人たちに「精神病質」と病名をつけ、ロボトミーを行うことが普通に行われた。ロボトミーは術後の患者の身体は維持されても、感情が失われるなどの問題があった。もちろんそこには精神病患者の人格への考慮はなかった。精神医療への薬物治療がなかった時代である。ロボトミーは社会に受け入れられ、昭和24年にモリスはノーベル生理医学賞を受賞している。

 このような精神医学の背景の中で、東京大学の石川清講師が、台弘・東大教授の医療行為を告発した。台教授は、「精神分裂病は脳の脚気」との仮説を持ち、それを証明するため20数年前から都立松沢病院に入院している精神分裂病患者42人、躁うつ病や性格異常者約40人の大脳皮質摘出手術(ロボトミー)の際に、脳組織を0.3〜1グラム取り出し、生化学的分析を行っていた。このことを石川清講師が日本精神学会会員全員に告発したのだった。

 脳組織を取られた患者の中には11歳の少女も含まれ、手術直後に2人の患者が死亡していた。石川清講師はこの台弘・東大教授の根底には研究至上主義の医局制度があると指摘した。これまで患者の人権が問題になるようなことはなかった。731部隊の歴史はもみ消され、731部隊の幹部は日本医学会の中枢で反省もなく生き残っていた。人体実験があったとしても、患者の人権がそれほど問題になることはなかった。大学教授は絶対権力の中で、患者の権利など眼中になかった時代であった。

 石川講師は日本精神神経学会評議員で、告発された台教授は同学会の理事長を務めていた。この告発はそれまでの精神医学、医学研究、医学講座制、患者の権利に対する大きな問題を提起したのであった。学会が台教授の事例について特別委員会を設置し、検討することになった。まず台教授の行った実験が、許容範囲かどうかが検討された。

 昭和47年6月13日の同学会で、脳組織を0.3〜1グラムを取り出した人体実験が3時間にわたり議論され、台教授の人体実験を間違いとする医師は235人、擁護する医師は28人、保留は69人であった。大部分の医師は台教授の研究を人体実験として批判したが、投票直前に100人以上が会場を退出したため、学会の正式決議にはならなかった。

 一方、松沢病院には、脳組織摘出後に出血死した患者の経過が記録されたカルテが残されていて、患者は手術を拒否しているのに手術が強行され、患者や家族の同意を得ていないことが明らかになった。このことから昭和48年5月の日本精神神経学会で、台教授の行った実験は安全性を確認していないだけでなく、患者の人権を無視した行為で、医学上の人体実験であり、台教授だけでなく学会としても深く反省すべきとした。

 わが国では20年間に12万人の患者がロボトミー手術を受けている。事件当時はちょうど向精神薬が開発中で、昭和50年の学会では、精神外科を医療として認めない決議が行われた。

 昭和40年代は大学紛争の時代だった。精神医学界も大揺れに揺れ、昭和44年の日本精神神経学会では、左翼系若手医師と執行部が激しくぶつかり紛糾していた。

 昭和43年10月、東大では精神科医局が自主解散し、左翼系の医師たちが「東大精神科医師連合」を結成、翌年には保守派の医師たちが「教室会議」を結成、東大の精神科は2つに割れた。精神科医師連合は病棟を、教室会議は外来を占領して対立し、外来患者を病棟に入院させることはできず、退院した患者は別の病院の外来で受診することになった。このような時代背景の事件であった。