恍惚の人

恍惚の人 昭和47年(1972年)

 恍惚の人とは、有吉佐和子の小説「恍惚の人」から生まれた言葉で、すなわちボケ老人(認知症)を意味していた。この小説が昭和47年6月に出版されると大きな反響を呼び、140万部を売り上げる大ベストセラーとなった。有吉佐和子は暗く深刻になりがちな老人問題を、恍惚の人というネーミングを用い、全体的に明るくユーモアを含んだタッチで描いていた。

 この小説は、今後確実にやってくる高齢化社会を先取りし、老人問題を初めて正面から扱っていた。それまでボケ老人(認知症)は家族の恥とされ、世間から隔離され、話題にすることはタブーとされていた。その当時の日本の平均寿命は、男性が69歳、女性が74歳で、その後に予想される高齢化社会をわずかに意識するようになったばかりであった。現在、65歳以上の高齢者は人口の24%であるが、当時は7%にすぎなかった。

 それまでの日本人は高齢化社会を意識していなかった。定年を過ぎれば、多くは何らかの病気で死んでいったからである。老人は長寿を全うして死を迎えるものと思い込んでいた。そのため老人性痴呆は問題にされていなかったが、医学が進歩し、平均寿命が延びるにつれ、脳の老化ともいえる老人性痴呆の患者が増加したのだった。その意味で「恍惚の人」は、誰もが抱く高齢化という不安を直視し、高齢化に向かう社会の変化に初めて光を当てた小説であった。

 小説「恍惚の人」は、84歳の舅(しゅうと)・茂造がもうろくしてしまい、それを献身的に介護する息子の嫁・昭子の苦労話である。会社員である昭子の夫・立花信利は東京の郊外に住み、離れに信利の両親・茂造夫婦が住んでいた。それまで一家の大黒柱だった茂造が定年になり、定年後に勤めていた保険集金をやめたころから、様子がおかしくなった。そして老妻の死がきっかけに茂造の痴呆が明らかになり、茂造は老妻の死を理解できず、死の数日後にはボケが進行して徘徊(はいかい)するようになった。突然家を出てしまい、家族が探し回るようになった。

 舅のボケは、立花家にとって降って沸いたようなもので、平均的なサラリーマン家庭を突然襲ってきた悲劇だった。茂造は何もかも忘れてしまい、幼児化していった。雪の日にコートを着ないで外出し、食べ物を際限なく食べ、空腹を訴えながら突然徘徊し、想像もつかない奇行の連続であった。嫁いびりをするほど元気だった茂造は、自分の息子や娘の顔を忘れ、息子を暴漢呼ばわりした。それでいながら、昭子と孫のことをかすかに覚えていて、子供のような無邪気な笑顔を見せながら、便をそこら中に塗りつけた。昭子は懸命に介護を行うが、夫の信利は何の役にも立たなかった。

 昭子はそれまで勤めていた法律事務所を辞め、茂造の介護を一身に引き受けた。何も手伝わない夫や親類はあれこれと口を出し、昭子の悩みは深まるばかりであった。福祉事務所に相談しても何の解決にも至らず、虚栄だけの夫、口先だけの親戚、精神病院に入れるしかないと言う福祉事務所。預ける福祉施設もない馬鹿げた社会だった。

 その結果、昭子は1人で茂造の面倒を見ることになった。いつ終わるとも知れない介護の日々、何が起きるか分からない毎日、それは家庭崩壊を予感させる戦場であった。昭子は「生かせるだけ生かしてやろう」と必死に茂造の世話をするが、茂造は次第に衰弱して、排泄の始末もできなくなり、寝たきりとなった。そして間もなく、茂造は安らかに死んでいった。茂造が死ぬまでの日々は、昭子にとって心身をすり減らす戦いの連続であった。

 当時はボケの原因は分かっていなかった。茂造が痴呆となったのは無趣味だったから、病気を持っていたから、精神的ストレスがあったから、このように昭子は考えを巡らしていた。女性の社会進出が進み、核家族のなかで、読者は親あるいは自分を襲ってくる老後の姿を重ね合わせていた。

 高齢化社会を前に、介護は妻の役割とする社会通念、立ち遅れた老人福祉、人間の生死の意味、高齢者の孤独、寝たきり老人と老人性痴呆。このように「恍惚の人」は多くの問題を読者に投げかけてきた。痴呆症になった老人を抱えた家族の苦悩、老人を励ましながら、それでいて老人の死を期待する隠れた心情などが理解できた。身につまされるテーマが読者の関心を呼んだ。

 誰もが抱える問題でありながら、日本の老人福祉は遅れていた。老人ホームは数年の入所待ちで、しかも痴呆老人は老人ホームには入所できなかった。痴呆老人を預けることができるのは精神病院だけで、途方にくれる主人公の心情が読者の心を締めつけた。

 現在、痴呆性老人は65歳以上では8%、85歳以上では33%を占めている。痴呆老人は、老年性痴呆、脳血管性痴呆、アルツハイマー病の3種類に大別でき、老年性痴呆とは脳動脈硬化が進み、大脳の前頭葉の働きが徐々に低下してボケの状態になることである。内臓は普通に働き、運動障害も軽度で、いわゆる脳の機能が低下によるものだった。脳血管性痴呆は、脳梗塞などの脳血管障害による脳機能の低下で、発症の時期が明確で、経過は階段状に進行する。脳血管性痴呆の症状は軽度で自覚もあるが、老年性痴呆は進行性で自覚症状に乏しい。アルツハイマー型痴呆の原因は不明であるが、女性に多く、人格が変わることがある。

 当時の平均寿命は現在より短かったが、近い将来、高齢化社会を迎える日本にとって、老人性痴呆は他人事ではなかった。人口の高齢化、老人問題への不安はすでに始まっていた。そして昭和47年に、時代の流れに鋭敏な有吉佐和子は、いち早く痴呆症の老人を取り上げ、「恍惚の人」を世に問うたのだった。

 当時は、老人を大切にするという考えが、核家族化が進む中で残されていた。嫁が老人の世話をするのは当然とされ、このことが老人問題、痴呆症問題をより悲劇的にした。福祉は遅れ、ようやく老人病院が建てられようとしていた。

 有吉佐和子は時代を見抜く才女であった。有吉佐和子は人間として避けて通れない老いの寂しさを、老人になる入り口で考えたのである。有吉佐和子は印税1億円を老人施設に寄付したが、地方税を含め8000万円が税金となることがわかった。この税制のゆがみに対し有吉佐和子は新聞に意見広告を出し、大きな社会問題となった。そしてこの意見広告をきっかけに、厚生省は社会福祉施設への寄付を免税とする制度を作ったが、それまで福祉施設への免税を所得の15%までを20%までに引き上げたにすぎなかった。

 有吉佐和子は恍惚の人ばかりでなく、環境汚染に警鐘を鳴らした「複合汚染」を昭和49年から半年間、朝日新聞に連載し、大きな反響を呼んだ。複合汚染とは2種類以上の物質により汚染が増幅されることで、当時は公害、農薬、排気ガス、合成洗剤などの環境汚染が問題になっていたが、それら1つ1つを汚染の原因とするだけでなく、それらが組み合わさって予想を超える汚染を引き起こすことを忠告したのである。

 有吉佐和子は「高度経済成長に伴う公害が自然を破壊し、農薬中心の農作物が健康を損なわせ、これらが人間そのものを汚染し、人間を破壊から滅亡に追いやる」と強い危機感と憤りを持っていた。「複合汚染」は農薬や化学物質に依存する農業の在り方を問う衝撃的な内容であった。恍惚の人、複合汚染は社会問題を先取りしたという意味では社会派小説といえる。

 有吉佐和子は、昭和6年に和歌山県で生まれ、幼少期は銀行員の父親の関係からジャワ(インドネシア)で生活、豪邸の中で召使にかしずかれて育った。少女時代は病弱で読書が趣味であった。戦時中に帰国すると軍国主義の日本に失意の日々を送った。昭和27年、東京女子短大英語科を卒業、大学在学中から歌舞伎や芝居の劇評を書き、同人雑誌・白痴群に投稿していた。

 昭和31年、25歳のときに書いた「地唄」が芥川賞候補となって文壇に登場。紀州を舞台にした年代記「紀ノ川」で本格的な作家活動に入った。小説「華岡青洲の妻」では、約200年前に世界で初めて全身麻酔で乳がん摘出手術に成功した、和歌山出身の医師・華岡青洲の生涯を取り上げた。そのほか「出雲の阿国」「有田川」など50以上の作品を残している。有吉佐和子は「恍惚の人」を書いたが、そのきっかけは彼女が35歳のとき、英語の辞書で同じ言葉を何度も引くようになったことに老いを感じてのことであった。

 有吉佐和子は、女性でありながら怒りの作家、社会派作家とされている。昭和50年の「四畳半襖(ふすま)の下張り」裁判では、言論の自由をめぐり、裁判に負けたら自分もポルノを書くと公言。そして裁判に負けるとポルノ小説「油屋おこん」を新聞に連載した。しかし主人公と自分の娘の年齢が同じだったことから筆が進まず、途中で連載をやめてしまった。女性ながら根性の入った作家だった。昭和59年8月30日、睡眠中に突発的心不全をきたし急死、享年53。時代と闘いながら、生き急ぎ、死に急いだ作家であった。