天六ガス爆発

天六ガス爆発 昭和45年(1970年)

 昭和45年は、大阪万国博覧会が開催された年で、万博を契機に大阪の再開発が急ピッチで進められていた。地下鉄は5年間で6路線33キロの建設を終え、総延長は64キロとなり、大阪は世界第9位の地下鉄都市になった。次の目標を周辺都市への地下鉄の延長とし、その第一歩が谷町線東梅田・都島間3.5キロの延長工事だった。

 大阪万博の開催から約1カ月後の4月8日、予想もしなかったガス漏れ事故が北区菅栄町の地下鉄・天神橋六丁目駅(天六)付近で起きた。天神橋は大阪駅から東北約2キロに位置する繁華街で、午後5時頃、建設工事現場でガス漏れが発見された。

 地下2メートルに宙づりになっている直径50センチのガス管から黒煙が上がっているのを作業員が発見。現場で働いていた10人を避難させ、すぐに大阪ガス、大阪市消防局、大阪府警に連絡した。大阪ガスの緊急事故処理車が現場に到着した時にはガスは付近一帯に広がっていた。そのうちに緊急処理車のエンジンの火花がガスに引火し車は炎上。午後5時45分、大音響とともに大爆発を引き起こした。

 鼓膜が破れそうになるほどの大爆発とともに10メートルの火柱が3本立ち上り、この爆発で作業員や通行人79人が死亡、重軽傷者420人の大惨事となった。地面は炎に覆われ民家22棟と車10数台が炎上した。200メートル四方の民家、ビルの窓ガラスやドアは爆風で吹き飛んだ。

 この事故が悲惨だったのは、大阪ガスの自動車が炎上した時点では、単なる事故と思い込んだ2300人の見物人が現場に押し寄せていたことだった。爆発直前の午後5時半の時点ではケガ人はいなかった。見物人はガス漏れを知らず、退避指導がなかったことが被害を甚大にした。その意味では人災とされても仕方のない事故であった。

 当時の地下鉄工事はオープンカット方式で建設されていた。道路の中央に深さ15メートルの堀を造り、堀を覆うように長さ1.5メートル、幅50センチ、厚さ20センチ、重さ400キロのコンクリート鉄板を市道に敷き、その上に自動車を走らせていた。コンクリート鉄板の下には電気、ガス、水道、下水道、通信線などを支柱にぶらさげていた。今回の事故は地下溝にむき出しの状態の都市ガス管の継ぎ目から大量のガスが漏洩したのだった。

 見物人は爆風でなぎ倒され、10メートル下の工事現場に転落し、飛んできた畳1枚400キロのコンクリート鉄板の下敷きになり尊い多くの生命が奪われた。コンクリート鉄板に下半身を挟まれ、助けを求める者が目の前にいても、再爆発を恐れて手が出せない状態だった。爆発の犠牲者は作業員の4人で、残りのほとんどが10代や20代の見物人であった。

 この事故は帰宅のラッシュと重なり、バスが動かなかったため、歩きながら見物して犠牲となった者が多かった。被害が拡大したのはガス会社の対応が後手に回ったためで、自動車が炎上してから爆発まで10分間の間に見物人は増え続けていた。

 爆発現場は警察も消防も正確な被害者数を把握できないほどだった。夜の9時半になって消防局がガス管を閉め、炎が鎮火し、夜11時から救出作業が開始された。 400キロのコンクリート鉄板はめくり上がり、積み重なったまま木箱のように散乱していた。工事現場に転落した遺体はクレーン車で運び上げられた。

 救急車が現場に駆けつけたが、周囲は混乱していた。負傷者は北野病院、松本病院、斎藤病院、行岡病院に運ばれたが、病院は戦場そのものであった。遺体は黒こげで判別がつかないほどで、また火傷はなく打撲による死亡も多かった。

 この事故は人災といえた。現場から一般家庭にガスを供給する2本のガス管を止めるバルブはなく。それぞれ6カ所にストッパーを入れ、1時間かけやっとガスが止まったのである。午後9時半まで現場ではガスが充満していた。

 この事故は都市災害として最初のものであった。天神橋六丁目交差点から東へ60メートルを左折すると、立派な山門の國分寺がある。その國分寺公園に地下鉄谷町線工事現場ガス爆発事故犠牲者の慰霊碑が建立されている。

 昭和40年代から地上の交通過密を解消するため、都市の駅前には地下街が網の目のように造られていった。炭鉱事故を除くガス爆発事故を誰もが心配していたが、心配していたガス爆発がついに起きたのだった。

 昭和55年8月16日には、静岡駅前地下街の飲食店で小規模のガス爆発が起き、その30分後にガス管から漏れた都市ガスに引火し、二次爆発となり死者15人、重軽傷233人を出した。事故後の調査により、最初の爆発は地下湧水槽に捨てられていた残飯のヘドロから発生したメタンガスが原因だったが、最初の爆発によって破損したガス管から漏れた都市ガスが30分後の二次爆発の原因となった。

 現場検証中の消防士や取材中の報道関係者、通行人などが爆風で吹き飛ばされ、火災でやけどを負うなどして死傷した。静岡県警は業務上過失致死傷の疑いで静岡ガスの保安要員ら2人を書類送検したが、静岡地検は嫌疑不十分で不起訴処分としている。

 昭和58年11月22日正午、静岡県掛川市のレクリエーション施設「つま恋」の室内バーベキューガーデンでプロパンガスが爆発、建物は崩壊し全焼した。この事故でアルバイトの女子学生、従業員など14人が死亡、28人が重軽傷を負った。現場から約15分の距離にある総合病院には何の連絡もなく、市民病院と市立病院の2カ所で対応し、市民病院に34人が収容された。

 静岡県は集団災害時の救急体制のまずさから、集団災害時のtriage(重症選別)が救命手段に欠かせないとし、その後、集団災害時の対応として、事故時の医師と看護婦は出動する救急隊とともに災害現場で赤(重症)黄(中等症)青(軽症)の順に重症度識別を患者につけ、重症度に応じて応急処置を行い搬送する病院を振り分ける対策を取るようになった。

 つま恋の事故は、バーベキューガーデンの改装の時に、床下のガス栓を閉め忘れたことが原因であった。爆発前に警報機が鳴ったが、誤報と思い込み、逃げ遅れたのだった。ところでサッカーの監督として川崎フロンターレを優勝させた松本育夫さんは42歳の時につま恋ガス爆発事故に巻き込まれ、両手両足を複雑骨折、40%の火傷を負い死線をくぐり抜けていた。