千日デパート火災

千日デパート火災 昭和47年(1972年)

 沖縄返還を直前に控えた昭和47年5月13日の夜10時半頃、大阪市南区の繁華街にある難波新地四番町(現・中央区千日前)の雑居ビル・千日デパート(7階、地下1階)の3階婦人服売り場から出火した。火は瞬く間に燃え広がり、火と煙は最上階の7階まで達した。7階のキャバレー「プレイタウン」では、客、ホステス、従業員ら179人が煙に巻かれ逃げ場を失った。猛煙と猛毒ガスに襲われ、7階から地上へ飛び降り、あるいは酸欠で死亡した。この千日デパート火災は、死者118人、重軽傷37人の犠牲者を出し、火災としては戦後最大の惨事となった。

 出火の原因は、3階のスーパーで配電工事をしていた現場監督が投げ捨てたたばこの火であった。たばこの火が化繊の衣服に燃え移り、吹き抜けのらせん階段が煙突の役割を果たし、7階まで一気に燃え広がった。たばこの火を投げ捨てた現場監督はすぐに逮捕された。千日デパートの火災は多くの犠牲者を出したが、それは無銭飲食を防止するため4つの非常口がふさがれていたこと、電気が切れ真っ暗で、窓が小さく救助が困難だったこと、多くの客が酩酊状態であったこと、従業員の誘導が不備だったことなどが重なったからである。

 救助袋には鍵がかかっていて開けるのに手間取り、鍵を開けて救助袋を下ろしたものの使用法が分からなかった。救助袋の中に入って降りるのを、滑り台のように降りようとして墜落死した者も多かった。

 デパートの幹部ら6人が、防火管理を怠ったとして業務上過失致死傷容疑で書類送検となった。1審では責任の所在が不明確として無罪となったが、高裁、最高裁では種々の措置を講ずべき注意義務があったとして、執行猶予付きの禁固刑となった。

 火災の当日は、「母の日」の前日の土曜日だった。犠牲となったホステスのほとんどは、家計を助けるために働き、翌日の母の日を前に子供と外出の約束をしていた。死者118人のうち女性が70人と圧倒的に多かった。

 デパート1階の映画館では、皮肉にも「恐怖の地下室」という映画が上映されいた。現場の千日前は、明治初期までは刑場と墓場だったが、明治45年の大火で周辺一帯が焼失した後に、ミナミを代表する繁華街として生まれ変わっていた。

 翌48年11月29日午後1時20分頃、熊本市の中心街にある熊本大洋デパートで火災が発生した。歳末商戦でにぎわう9階建ての店内には、店員500人、買い物客4000人がいた。多くは建物の外側の非常階段から脱出し、屋上から70人がロープで消防隊員に救助された。しかし逃げ遅れた買い物客48人、店員53人、工事関係者3人の計104人が死亡、重軽傷者123人を出した。

 出火場所は2階から3階に上がる階段の踊り場に積み上げられていたダンボールだったが、出火の原因は不明であった。従業員がすぐに消火しようとしたが、火は猛烈な勢いで燃え広がった。商品の寝具などに燃え広がり、3階から8階まで全焼した。昼間の火災であったが、火災と同時に停電となり、非常階段は商品の山でふさがれていた。同じ熊本にある鶴屋デパートには、救命袋が13本あったが、昭和28年に建設された大洋デパートには救命袋は1本もなかった。大洋デパートでは、報知機、救命具、スプリンクラーなどの防火設備に不備があった。だがこれは大洋デパートに限ったことではなく、当時は東京都内のデパートやスーパーでも、それらを完備している店はわずか18%だった。

 猛煙に巻かれ、酸欠状態となり、救助を待ちきれずに屋上から飛び降りる姿は地獄絵のようであった。大洋デパートの火災は鎮火までに8時間を要し、損害額は20億円に達した。デパートの火元責任者と防火管理者が業務上過失致死傷罪に問われ、最高裁まで争われたが、最終的には無罪となった。

 ビル火災が恐ろしいのは、火傷よりも一酸化炭素などの有毒ガスである。日本のビル火災として有名なのは、昭和7年12月に起きた東京・日本橋の白木屋の火災である。この火災で14人が死亡したが、この火災の特徴は火傷による死者が1人に対し、墜落による死者が13人だったことである。270人が窓から救助されたが、犠牲となった13人は和服だったため下着をつけておらず、ロープで脱出する際に裾がめくれるのを押さえようとしてロープから手を離し、墜落死したのだった。この白木屋の火災を教訓にズロースが普及することになる。

 戦後のデパート火災としては、昭和38年8月に池袋の西武百貨店で7、8階が燃え、エレベーターなどで7人が犠牲となった。また、昭和48年9月に、大阪府高槻市の西武タカツキショッピングセンターが全焼し、6人が犠牲になった。

 大規模な火災としては、昭和55年11月20日の午後3時半頃に発生した栃木県藤原町・川治温泉にある川治プリンスホテルの火災が挙げられる。出火当時、ホテルには112人の宿泊客がいたが、この火災で死者45人、負傷者22人の犠牲者を出した。死亡した45人のうちの40人は、東京都杉並区から紅葉見物に来た老人クラブの人たちであった。ホテル1階の風呂で浴槽工事に使われていたガスバーナーが引火したとされている。

 川治プリンスホテルは、増改築で迷路のようになっていて、出火時に火災報知機は鳴ったが、偶然、その日は火災報知器の点検の日であった。従業員はテストと勘違いして、避難誘導をせず、「試験だから心配しないように」と館内放送を流したのである。このような不手際が重なり、白昼の火災にもかかわらず、火は瞬く間に燃え広がり最悪の事態となった。

 昭和62年、東京高裁は川治プリンスホテル元社長に禁固2年6カ月執行猶予3年、元専務には禁固2年6カ月の実刑、出火の原因となった建設作業員に禁固1年執行猶予3年の判決を言い渡した。この川治プリンスホテルの火災をきっかけに、旅館、ホテル、劇場などでは「マル適マーク」の掲示が義務づけられた。

 まだ記憶に残る火災として、東京・赤坂のホテル・ニュージャパンの火災を挙げることができる。昭和57年2月8日深夜3時25分頃、東京都心の永田町に立地する地上10階地下2階、客室数513室、収容人員2946人の大規模ホテルで火災が発生した。この夜の宿泊客は442人で、9階と10階に宿泊していたのは103人。その多くは台湾や韓国からの「札幌雪祭りツアー」61人の旅行客だった。9階に宿泊していた英国人の寝たばこが火災の原因であるが、ホテルにはスプリンクラーは設置されていなかった。その上、防火扉は作動せず、自動火災報知器のスイッチは切られていて、非常放送は故障のため使用できなかった。

 このようなずさんな防火体制が、多数の犠牲者を出すことになった。これらの不備は当局から再三指導を受けていたが、全く改善していなかった。消火設備の不備のため、火はまたたく間に燃え広がり、従業員による避難誘導もなく、宿泊客442人中死者33人、重軽傷者34人(うち消防隊員7人)を出す大惨事となった。

 ホテル・ニュージャパンの火災は深夜であったが、熱さに耐えきれず窓枠の外側から助けを求め、高層階の窓から飛び降りる犠牲者の姿がテレビで放映され、日本中に衝撃を与えた。死者33人のうち、飛び降りまたは転落して死亡したのは13人で、66人もの人命が奇跡的に救出された。窓からシーツや毛布、配水管等を伝って必死の脱出を遂げた者が多くいた。

 ホテル・ニュージャパンの横井英樹社長は乗っ取り王の異名をもつ有名人で、目先の損得を優先した経営方針が犠牲者を多く出した。当日の早朝、まだ騒然といている現場でトレードマークのちょうネクタイで現れた横井社長は拡声器を持って、「みなさん早朝よりご苦労さんです。不幸中の幸いで、火災は10階と9階だけで終わりました」と詰め掛けた報道陣に言葉を発し、他人事のように開き直った言動に多くの国民はあぜんとなった。ホテル側のあまりにもずさんな防災対策が明らかとなり、怒りの声が経営者の横井社長に向けられた。

 11月18日、横井社長ら4人が業務上過失致死容疑で逮捕された。このホテルはその後、1996年に千代田生命が38階建ての高層ビルを建築しようとして取り壊しに着手したが、平成12年に千代田生命が破綻したため、米国の生命保険大手のプルデンシャルと森ビルに買い取られ、平成14年12月に「プルデンシャルタワー」という高層ビルに生まれ変わった。

 最近のビル火災としては、平成13年9月1日午前1時頃に発生した東京都新宿区歌舞伎町の明星ビル火災がある。明星ビルは地上4階地下2階の雑居ビルで、3階はマージャンゲーム店、4階はキャバクラになっていた。出火場所は、救助された従業員の供述から3階エレベーターホール付近とされ、同階に燃え広がった後、屋内階段を経由して4階のキャバクラに拡大した。

 3階には客と従業員が19人いて、3人は脱出したが16人が死亡。4階のキャバクラ「スーパールーズ」には、若い従業員と客28人がいて全員が死亡した。この火災でビル内にいた57人中44人が死亡(男性32人、女性12人)したが、死亡した人たちの火傷は軽度で、死因は一酸化炭素中毒だった。一酸化炭素は無色無臭の気体で、濃度が高ければわずか3呼吸で意識不明になる。ビルの窓がふさがれ、消防法で義務づけられた避難器具は設置されておらず、階段にはロッカーやイスなどが山積みになっていた。

 消防車35台が出動して消火、救助活動を行い、けが人は東京女子医大、慶応大病院、国立国際医療センターなど15カ所の病院へ搬送された。警視庁は放火と失火の両面から調べたが、火災があまりに早かったことから、たばこの火や漏電ではなく、何者かが3階踊り場付近で放火した疑いが強かった。何者かが3階エレベーターホールにあったゴミに放火したか、ガス管を外して放火したとされている。この火災の真相は不明であるが、事故ではなく放火ならば大量殺人事件といえる。

 明星ビル火災の特徴として、建物が細長く屋内階段が1カ所しかないペンシルビルと呼ばれる危険な構造だったこと、火元が階段のそばで逃げ場がなかったこと、3階から4階への階段にはロッカーが多数置いてあって消火活動の障害になっていたことである。明星ビルは新宿消防署の立ち入り検査で、防火管理者の未選任▽消防計画の未作成▽避難場所の障害物▽消火訓練の未実施▽消防設備の未点検▽火災報知器の不備▽避難器具の未設置▽誘導灯の不点灯が違法と指摘されていたが、改善されていなかった。

 死者した客と従業員の平均年齢は、男性32.7歳。女性23.7歳と若かった。若い女性はキャバクラで働き、若い男性はキャバクラで遊んでいたと報道された。犠牲者の悲しみに同情すると同時に、痛ましい事件に追い打ちを掛けるような、名前や顔写真の実名報道に強い怒りを覚えた。まさに報道被害者と言える。