中ピ連

中ピ連 昭和45年(1970年)

 昭和45年、欧米各国で盛んになった女性解放運動が日本に上陸し、男女差別の撤廃、雇用の機会均等などを主張する女性による女性解放運動が活発になっていた。彼女たちの運動はウーマン・リブと呼ばれ、女性の地位の向上を目指した運動として、若い女性にある種の期待感を持たせた。ウーマン・リブ運動として、「女性解放運動準備会」「ぐるーぷ闘うおんな」などのグループが活動していた。

 ところが女性解放運動は当初の目的から逸脱し、世間の反感と失笑を買うようになった。その原因となったのが中ピ連である。中ピ連はピンク色のヘルメットをかぶり黄色い声を張り上げ、あの時代を駆け抜けていった。

 昭和47年6月18日、ウーマン・リブ運動から2年遅れて中ピ連は結成された。中ピ連とは「中絶禁止法に反対し、ピル解禁をかちとる女性解放連合」の略称で、27歳の榎美沙子が代表であった。他のウーマン・リブのグループは自然発生的な団体で代表者を置かなかったが、中ピ連だけは榎美沙子が唯一の代表者であった。榎美沙子の独裁色の強い個性によって、榎美沙子そのものが中ピ連といってよかった。

 昭和48年5月12日、ピンクのヘルメットをかぶった中ピ連は「ピルを解禁せよ」と厚生省に押し掛け座り込んだ。「生む生まないは、女性に任せよ」「厚生省は、男性の避妊薬を開発せよ」などとシュプレヒコールを繰り返した。

 「中絶禁止法に反対し、ピル解禁をかちとること」だけが中ピ連の目的であったならば、中ピ連はそれほど注目されなかった。しかし中ピ連の活動は常に過激だった。当時盛んだった学生運動をまねたピンクのヘルメットをかぶり、集会やデモなど派手な街頭行動を繰り返した。

 家族計画連盟の集会に殴り込みをかけ、優生保護法に反対して男女平等を唱え、中ピ連は一部の若い女性から支持を得られたが、多くはその奇抜な行動ゆえに好奇の目で見られていた。

 代表の榎美沙子は京大薬学部出身で、優秀で美人だったので、このお騒がせ集団をマスコミが黙っているはずはなかった。榎美沙子はテレビやラジオに頻回に顔を出し、マスコミは次第に彼女にほんろうされていった。マスコミは榎を追い回し、榎はマスコミに出ずっぱりとなった。

 この中ピ連は、昭和49年8月19日、「女を泣き寝入りさせない会」を結成し、身勝手な男たちにゲバルト行動を行うようになった。浮気や慰謝料などの問題が発生すると、男性の職場に大勢で押し掛け、「慰謝料を出せ」とシュプレキコールを張り上げた。プラカードを持ち、会社の前に座り込み、問題のある男性の糾弾を繰り返した。

 「離婚するときは全財産を妻に渡すこと、さもなければ連日勤め先にデモをかける」「上司の責任も追及する」…。このように恐喝といえる過激な実力行使を繰り返した。実際に20年間連れ添った妻を無一文で追い出した自動車会社社長の会社に押し掛け、財産の半分を譲渡する条件を引き出し世間を驚かせた。

 また倒産寸前の会社に押し掛け、女子職員の給与を支払うように団体交渉を行った。中ピ連は「弱き女性を助け、強き男性をくじく行動」であった。だが彼女らの行動は世の良識をはるかに越えていた。公私混同のゲリラ戦と呼ぶにふさわしかった。

 昭和50年は国際婦人年で、そのこともあって、マスコミは中ピ連に迎合した。中ピ連はミス・インターナショナル・コンテストに抗議し、会場に押し掛け中止を叫んだ。NHKの紅白歌合戦に出演する男性歌手の中に女性を泣かせた者がいると粉砕予告を出した。中ピ連はマスコミを意識し、過激な運動を繰り返し、マスコミも面白半分に中ピ連を取り上げた。

 昭和50年4月1日、京都国際会館で開催中の日本医学会総会の会場に中ピ連35人が乱入し、ピルの解禁を迫った。そればかりではなく、愛人同伴で総会に出席していた離婚訴訟中の東京の医師をつるし上げた。

 昭和51年10月6日、東京で行われた第29回世界医師会総会にも乗り込み、「ピルを不当に解禁せず、妊娠中絶手術でボロ儲けしている日本医師会粉砕」を叫んだ。

 黄色い声でシュプレヒコールを繰り返す中ピ連に、誰も手を出せなかった。中ピ連の行動は女性解放運動ではなく、女性解放を利用して世間の注目と騒動を求めているようだった。そのためウーマン・リブへの偏見と反感をもたらし、彼女らの行動は女性の地位向上にマイナスとなった。

 昭和51年6月25日、中ピ連は宗教団体「女性復光教」を創設、オスが子育てをするタツノオトシゴをご神体に榎美沙子自らが教祖となった。

 翌52年4月1日に参院選挙を目差し、「日本女性党」を結成、「内閣はすべて女性とする」「公務員はすべて女性とし、男性は臨時職員かアルバイトとする」など、荒唐無稽(むけい)の政策を掲げ10人の公認候補を立てた。

 榎美沙子は白地に金モールのミリタリー・ルックで演説を繰り返したが、もちろん全員落選であった。選挙中に福田赳夫自民党総裁は「ワラのごとき存在」と称したが、まさにそれを実証した。

 参院選挙に惨敗して、榎美沙子は「中ピ連」「日本女性党」を解散、「愛する夫に尽くす」と、しおらしく主婦業を宣言して家庭に入った。あまりにあっけない言葉を残しての解散であった。榎美沙子は女性のためと言いながら、結果的に最も女性を裏切った女性であった。

 榎美沙子はそれ以降、ウーマン・リブ運動の舞台からは完全に姿を消し、南極越冬隊に参加した内科医と結婚して家庭に入った。その後、夫からの申し出で協議離婚となったが、彼女は今でもマスコミから完全に身を隠している。

 現在、世界中でピルを服用している女性は約1億人と推察されている。欧米では過半数の女性がピルを内服しているが、先進国の中で日本だけは副作用を理由にピルを認めていなかった。平成11年6月になって、厚生省はホルモン量の少ない経口避妊薬(低用量ピル)を医薬品として承認。中ピ連・榎が「ピル解禁」を叫んでから27年目の同年9月2日から低用量ピルが販売された。

 日本もようやく低用量ピル解禁となったわけだが、ピルを入手するには医師の診察、処方せんが必要で、また保険も適用されていないため、年間数万円の負担になる。榎が理想としていた市中の薬局での販売はまだなされていない。

 一世を風靡したピンク色のヘルメットをかぶった中ピ連、あれはいったい何だったのだろうか。榎美沙子はまさに時代が生んだあだ花と呼ぶにふさわしい女性であった。