ゲバ棒を捨て銃や爆弾で武装

ゲバ棒を捨て銃や爆弾で武装 昭和46年 (1971年)

 東大、日大闘争を頂点とした大学闘争は、学生たちの敗北によって終わりを告げようとしていた。中核派、革マル派などが凄惨(せいさん)な内ゲバを繰り広げる中、一部の過激派学生は武装闘争による革命を目指した。

 それまでの学生運動は、大衆を味方にすることを最大の武器としていたが、過激派学生は革命のためには国家権力と闘い、大衆を目覚めさせる方針に変わっていた。そのため大衆を敵にすることも辞さなかった。そのような過激派学生たちの中で、共産主義同盟の武闘路線派から生まれたのが共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)である。赤軍派は共産主義を信じ、世界同時革命を目標にしていた。

 昭和44年9月4日、日比谷野外音楽堂で開かれた全国全共闘結成大会で、赤軍派400人が公然と姿を現した。赤軍派は少ない人数で革命を成功させようとしたため、その闘争は手段を選ばず、革命の手段としてそれまでのゲバ棒を捨て、銃や爆弾を得ようとしていた。

 赤軍派は、大阪・阿倍野派出所など3カ所の交番を火炎ビンで攻撃し(大阪戦争)、東京・本郷では同時多発ゲリラを展開した(東京戦争)。さらに、10月の国際反戦デーでは、鉄パイプ爆弾でパトカーを襲撃した。血気盛んな若者は、ゲバ棒を振り回す従来の闘争よりも、本格的なテロ組織である赤軍派に魅了された。そのため赤軍派の逮捕者の中には多くの高校生が含まれていた。

 しかし11月5日、赤軍派は首相官邸襲撃の予行訓練のため、山梨県の大菩薩峠に集結したところを、内偵していた警察に踏み込まれ53人が逮捕された(大菩薩峠事件)。翌年には、議長・塩見孝也が逮捕され、組織は一気に弱体化した。追いつめられた赤軍派は革命拠点を海外に求め、昭和45年3月に「よど号ハイジャック事件」を起こすことになる。

 昭和45年1月16日、赤軍派は東京で約800人、2月7日には大阪で約1500人を集め、蜂起集会を開いた。そして森恒夫(27、大阪市立大)を中心にM作戦を展開することになる。M作戦とはマフィアの頭文字から取ったもので、革命資金を得るための強盗であった。2月から7月にかけ、郵便局、銀行など8カ所を襲い資金奪取を行った。6月17日、沖縄返還調印阻止闘争で837人が逮捕されたが、赤軍派は明治公園オリンピック道路で全共闘デモを展開し、鉄パイプ爆弾を機動隊に投げつけ2人の機動隊員に重症を負わせた。これらは理論的指導者を欠いた赤軍派の暴走であった。

 一方、日本共産党は中国共産党との対立を深め、党内の親中国派を除名した。この親中国派・毛沢東主義と結びついた武装集団が京浜安保共闘である。昭和44年、京浜安保共闘は赤軍派とほぼ同時期に誕生し、理論的指導者である川島豪(28)は「革命は銃から生まれる」との過激な路線を宣言した。

 京浜安保共闘は、京浜工業地帯の労働者や学生を中心とした組織で、3カ所の米軍基地や米国大使館を爆破するなど過激な闘争を展開した。しかしこの闘争で川島豪をはじめ25人が逮捕され、残された幹部は永田洋子(24、共立薬科大卒)、坂口弘(23、東京水産大中退)、吉野雅邦(21、横浜国大中退)、寺岡恒一(21、横浜国大)となった。

 昭和45年9月、永田洋子が委員長になると、京浜安保共闘は彼女の独裁体制となった。政治ゲリラから軍事ゲリラへと戦術を転換し、攻撃目標を交番襲撃に移していった。交番襲撃は武装蜂起のために銃を奪うことが目的だった。12月18日、東京都練馬区の上赤塚交番を襲撃するが、仲間の柴野春彦(24、横浜国大)が警官に射殺された。京浜安保共闘は、柴野春彦の復讐として、昭和46年4月から12月にかけて10カ所以上の交番を爆破した。そして12月18日、警視庁警務部長の土田国保宅に届けられた小包が爆発、夫人の民子さん(47)が死亡、四男も重傷を負った。12月24日には、新宿伊勢丹デパート前の四谷署追分交番でクリスマスツリーに見せかけた爆弾が爆破、警官2人が重傷を負い通行人10人が負傷した。

 警察は相次ぐ爆弾事件で、威信を賭けて東京のアパートをしらみつぶしに捜査するローラー作戦を実施。都市部のアジトから京浜安保共闘を追い出す作戦に出た。追い詰められた過激派は山岳アジトに移動することになる。

 昭和46年2月17日、京浜安保共闘は栃木県真岡市の塚田銃砲店に侵入。出刃包丁で家人を脅迫して猟銃10丁、空気銃1丁、散弾実砲2800発を奪い、群馬県館林市のアジトに運んだ。4月には、山梨県北都留郡丹波山村に17人が集結し、猟銃による実践訓練を行ったが、この集結で向山茂徳(21、諏訪清陵高校卒)、早岐やす子(21、日大看護学院中退)が逃走。警察への通報を恐れた京浜安保共闘は、逃走した2人をアジトに誘い殺害した。

 京浜安保共闘は、アジトを群馬県北群馬郡伊香保町の榛名山に移動、このときのメンバーは20人であったが、森恒夫が率いる赤軍派9人が合流して、計29人からなる「連合赤軍」が誕生した。赤軍派は世界同時革命を目指して資金力があり、京浜安保共闘は反米革命論で武器の調達をしていた。この2つの集団は革命理論上の違いはあったが、武力革命を目指す点においては一致しており、ここに連合赤軍が創設された。

 翌47年、山中アジトでは風呂に入らず、彼らは異臭を漂わせたまま街に出た。髪はボサボサで顔はすすけ、服は泥とほこりまみれ、ひどい悪臭を放っていた。このような悪臭と風ぼうを不審に思った商店主が警察へ通報、また2人の男女を乗せたタクシー運転手が群馬県警に通報した。このときの2人は森恒夫と永田洋子だった。

 2月16日、山中のぬかるみにはまっているライトバンを松井田署員が発見。車内にいた奥沢修一(22、慶応大)と杉崎ミサ子(24、横浜国大)を逮捕。2月17日には、機動隊350人と警察犬13頭を動員して妙義山の山狩りを開始。午前9時35分、籠沢上流の洞くつ付近に隠れていた森恒夫と永田洋子が警察犬に追い立てられ逮捕された。このとき、森と永田はナイフを持ち機動隊にケガを負わせている。

 森恒夫と永田洋子の逮捕をラジオで知った9人は軽井沢の山中に逃げ込んだ。植垣康博(23、弘前大)、伊藤和子(23、日大看護学院)、青砥幹夫(22、弘前大)、寺林真喜江(22、市邨学園短期大卒)の4人は山を降り軽井沢駅に姿を現した。、駅の売店のおばさんが不審に思い、駅員にそのことを伝え、駅員は電車を遅らせて警察に通報して4人が逮捕された。残された5人は軽井沢町レイクニュータウンの無人の「さつき山荘」に逃げ込んだ。