クロロキン網膜症

クロロキン網膜症 昭和46年(1971年)

 昭和46年10月14日、朝日新聞は宮崎県延岡市の会社員・木村正幸さん(46)が「クロロキンによる薬害を厚生大臣に直訴したこと」をスクープ記事として報道した。

 木村正幸さんは腎疾患を患い、昭和38年に延岡市内の病院に入院。その後5年間にわたってクロロキン製剤である「キドラ」を毎日3錠ずつ飲み続け、昭和41年頃から夕方になると物が見えにくくなり(夜盲症)、昼間も全体がかすんで見えなくなった。視野は極端に狭くなり、1メートル離れた人の顔も、顔の中心部しか見えなかった。昭和43年に九州大学病院に入院して、視力障害はクロロキンによる網膜症であることが分かった。

 クロロキンに視力障害の副作用があるは、欧米では以前からよく知られており、会社員が厚生大臣に直訴したのは、厚生省がクロロキン薬害に何ら手を打たず放置していたからである。会社員は厚生大臣にクロロキン薬害を訴えたが、厚生省は会社員の手紙に返事を書かずに無視する態度をとった。

 しかしこの朝日新聞の報道をきっかけに、全国に散在していたクロロキン網膜症の被害者が続々と名乗り出ることになった。クロロキン網膜症の被害者たちは全国レベルで団結、薬害の世論が盛り上がり、「クロロキン被害者の会」が結成された。

 クロロキンはドイツのバイエル社が昭和8年に開発した抗マラリア剤である。このクロロキンは毒性が強いことから長い間使用されずにいたが、昭和16年、太平洋戦争勃発とともにクロロキンが注目されることになる。アメリカ軍が、東南アジアの兵士をマラリアから救うため、従来から用いられていたキニーネよりも効果のあるクロロキンが再評価されたのである。

 アメリカ軍は4カ所の刑務所で百数十人の囚人を2つのグループに分け、一方にはクロロキンを内服させ、もう一方にはキニーネを内服させた。この人体実験でクロロキンは投与1週間でマラリアを完治させること、長期間の大量内服で眼の障害をきたすことが分かった。クロロキンはマラリアの特効薬としてアメリカ軍を中心に世界中に広がっていった。

 昭和23年、クロロキンを1年間服用した場合、約半数に網膜症を起こすことがアメリカで発表された。クロロキン網膜症の特徴はクロロキンを中止しても治らないこと、治療法もなくクロロキン内服を継続すれば失明に至ることであった。さらにクロロキン網膜症は中心性視野狭窄が特徴で、中心性視野狭窄とは健康な人の視野は左右180度、上下120度であるが、クロロキン網膜症による視野狭窄は、この角度が狭まり視野の中心部しか見えないことであった。つまり筒をのぞいている状態になった。

 日本でクロロキンが販売されたのは昭和30年6月からで、吉富製薬がバイエル社から輸入し、武田薬品が「レゾヒン錠」の商品名で販売した。発売当初の投与対象疾患は欧米と同じくマラリアと慢性関節リウマチに限定していたため何の問題もなかった。その証拠に、欧米ではクロロキンは現在でも発売されており、マラリアと慢性関節リウマチの治療薬として高い評価を得ている。

 クロロキンの副作用はごくわずかであったが、昭和33年、神戸大学・辻正造教授が学会で「腎炎の治療にクロロキンが有効」と報告した。この報告は被験者が8人とのお粗末なものであったが、製薬メーカーはこの論文に注目し、この論文がクロロキン網膜症増大のきっかけを作った。

 同年、クロロキンを輸入販売していた吉富製薬がクロロキンの適応疾患を腎炎に拡大したのである。さらに昭和36年、小野薬品がクロロキンの生産体制を整え、クロロキンを慢性腎炎の特効薬と称して「キドラ」の商品名で大量に販売した。昭和36年はちょうど国民皆保険制度が発足した年である。国民皆保険制度が医薬品の大量製造、大量販売に拍車をかけた。

 小野薬品はキドラを腎機能に効果があると宣伝し、「医家に謹告、新しい腎臓病の治療薬が出ました。腎疾患治療剤キドラ」このような広告が新聞をにぎわせた。それまで腎疾患はステロイド剤以外に特効薬がなかったため、腎臓を患っていた患者はクロロキンの出現に希望を持った。

 腎臓病患者はクロロキンを長期内服することになった。この小野薬品「キドラ」が最も多くの被害者を出し、クロロキン網膜症の約8割がキドラよって引き起こされた。クロロキンは腎疾病の患者にバラ色の夢を与えたが、その夢が悲惨な悪夢を生むことになる。

 腎疾患で腎排泄機能に障害のある患者は、クロロキンが尿から排泄されず、体内に蓄積されクロロキン中毒を引き起こしたのである。クロロキン網膜症をきたした被害者のほとんどが慢性腎疾患の患者だった。

 このクロロキン網膜症がより悲劇的なのは、昭和51年にクロロキンの腎炎への治療効果がないことが判明したことである。慢性腎炎の患者は、治療効果ない副作用だけのクロロキンクを飲まされ失明だけが与えられた。

 腎臓疾患にクロロキンが効果ありとされたのは世界では日本だけである。なぜ効果のない薬剤が日本で盛んに宣伝され使用されたのか。クロロキンが腎炎に効果があるとしたのは神戸大の辻正造教授であったが、それは単にクロロキンの化学構造から腎炎に効果があるだろうとの思いつきであった。非科学的思いつきで腎炎患者にクロロキンが投与されたのである。

 クロロキンについては、京都大医学部内科第一講座、日本大学医学部第二内科、大阪大医学部吉田内科、慶応大医学部相沢内科が臨床試験を行い、腎炎に効果があり副作用は認められないと報告した。この臨床試験の成績が中央薬事審議会を通過し、クロロキンは腎炎の治療薬として認可されたのである。小野薬品社長の友人である辻正造教授、辻教授と連なる教授たちが、腎臓に効果があるとする論文を書き、300もの論文が製薬会社の宣伝に利用され、クロロキンの投与が拡大したのであった。

 腎臓病に効果のない薬剤を、大御所の教授が効果ありとの論文を書き、それを根拠に製薬会社は腎炎治療薬として販売したのである。ごく限られた疾患に限定使用されていたクロロキンが大量に売られ、しかも投与されたのがクロロキンの体内蓄積をきたす腎臓病患者であったことが悲劇の構図であった。欧米では腎炎の治療効果を示した論文はなく、むしろ腎臓病患者には禁忌とされていた。つまりクロロキン網膜症は日本だけの薬害であった。

 製薬会社は何の根拠もなしにクロロキンを腎炎、ネフローゼ、てんかん、気管支喘息に効果があると宣伝した。現在では信じられないことであるが、当時の薬事法は一度認可された医薬品は、適応疾患の拡大に制限がなかった。例えば、心臓の薬として販売していた薬剤が胃炎に効くと認められれば、胃薬として使用することが可能だった。

 小野薬品の「キドラ」に続いて、複数の製薬会社が同種薬を相次いで発売した。クロロキンの生産量が増加し、昭和36年頃からクロロキン網膜症が多発することになった。昭和37年、アメリカではクロロキン網膜症はごくわずかであったが、FDAはクロロキンの副作用を医療機関に配布するように指導、製薬会社は24万通の警告書を発送している。日本ではクロロキンを大量に使用しながら、クロロキン網膜症の警告はなされていなかった。

 昭和40年のリウマチ学会でクロロキン網膜症が話題となった。当時の厚生省薬務局製薬課のT課長は、自分が慢性関節リウマチのためクロロキンを内服していたが、製薬会社からクロロキン網膜症の情報を教えられ、すぐにクロロキンの内服をやめていた。このことが後の裁判で偶然明らかとなり、厚生省に非難が集中することになった。薬の安全性を監督する立場にあったT課長がクロロキンを中止した段階で適切な措置をしていれば、被害者の8割は防げたとされている。T課長がクロロキンの内服をやめたのは、クロロキン網膜症が新聞で騒がれる6年前のことだった。クロロキンは欧米で開発された薬剤で、日本の製薬会社はそれを輸入販売していたにすぎない。欧米からクロロキンの効果だけでなく副作用も警告されていたはずで、クロロキンの副作用を製薬会社も厚生省も認識していたことが、患者にとっての第2の悲劇といえる。

 厚生省がクロロキン網膜症の情報を国民、医療機関に流さず、製造中止の措置をとった後にクロロキンの回収をしなかったことが被害を大きくした。この批判に対し、厚生省は「医薬品の安全確保の責任は製薬会社にある」と述べただけであった。問題となったT課長は何ら責任を問われず薬務局審議官に出世し、東京医薬品工業協会に天下り、その後、漢方メーカーの相談役を務めた。

 クロロキン薬害が話題になり始めたころ、科研薬化工は新たなクロロキン製剤「CQC錠」を販売。しかもクロロキンの副作用を逆手にとり、他社のクロロキンでは網膜症を発症するが、当社のCQC錠は網膜症の副作用はないことを強調したのだった。毒性が弱いため長期投与に適すると宣伝したのが、その根拠は何ひとつなかった。

 クロロキン網膜症は、被害者の1人が厚生大臣に直訴し、厚生大臣が直訴に応じなかったことから新聞に取り上げられ、世論の盛り上がりによって、最終的には昭和49年にクロロキンは販売中止になった。クロロキン訴訟の弁護団長、後藤考典は5つの大罪としてクロロキン薬害の責任を追及した。

1.腎臓病に効果のない薬剤を、神戸大教授などの専門医が「製薬企業の提灯論文」を書き、それを根拠に治療薬として販売した責任

2.日本で大量販売が始まる以前から、外国では副作用が判明していたのに、日本だけ腎臓病への適応を認め販売した責任

3.クロロキン網膜症の副作用を知りながら無警告で販売した責任

4.多数の被害発生を無視して10数年も販売した責任

5.積極的に防止策を取らなかった厚生省の責任

 クロロキン網膜症の被害者は約1000人から2000人とされている。昭和57年2月1日、東京地裁は製薬6社の過失責任を認め、患者266人に28億8600万円の賠償支払いを命じる判決を下した。患者側はこの判決を不服として控訴し、昭和63年6月6日に約70億円で和解が成立している。

 平成7年6月23日、最高裁は国の責任を否定した。「原告側は、国が副作用を知りながら承認を取り消さなかったと主張するが、クロロキン製剤を服用したのは昭和34年から50年で、薬の有用性が否定された昭和51年より前だったことから、当時の医学的、薬学的知識の下では、クロロキン製剤の製造承認を取り消さなかったとしても、著しく不合理とは言えない」と述べて国の責任を否定したのである。