あさま山荘事件

あさま山荘事件 昭和47年(1972年)

 昭和47年2月19日、群馬、長野の両県警は1000人を超す警察官を動員して連合赤軍の捜索を行っていた。5人の警察官が北佐久郡軽井沢町のレイクタウン近くで数人の足跡を発見。この周辺の別荘は冬の間は無人のはずである。警察官が足跡を追いながら別荘に近づき、町田勝利隊長(28)が空き別荘の雨戸を開けた瞬間、中から拳銃を乱射しながら犯人が飛び出してきた。警察官は2人の負傷者を出しながらピストルで応戦、連合赤軍は約500メートル離れた河合楽器の保養所「あさま山荘」に押し入り、管理人の妻・牟田泰子さん(31)を人質にとって立てこもった。夫の郁男さん(35)は街に買い出しに行っていた。

 立てこもったのは坂口弘(25、東京水産大中退)、坂東国男(25、京都大卒)、吉野雅邦(23、横浜国大中退)、加藤倫教(19、東海高校卒)、その弟のM(16、東山工業高校)の5人であった。犯人が「あさま山荘」を選んだのは、山荘の前に車が止めてあったので、人質になる者がいて、籠城のための食料が豊富にあると考えたからである。

 午後5時20分、機動隊200人が浅間山荘前に到着した。3階建てのあさま山荘の出入り口は、道路に面した3階の玄関だけで、山の急傾斜に建てられた山荘の裏側は絶壁になっていた。山荘からの見通しはよく、警察の動きが手にとるように分かった。山荘には食料が豊富にあり、まさに難攻不落の要塞になっていた。連合赤軍は、1年前に栃木県の猟銃店から奪ったライフル1丁、拳銃1丁、2連銃3丁、5連銃1丁、爆弾数個、実弾約700発を持っていた。

 警察庁長官・後藤田正晴はこの事件解決について6項目の指示を出した。<1>人質の牟田泰子さんを必ず救出すること<2>犯人を射殺すると殉教者になるので犯人は生け捕りにすること<3>身代わり人質は殺害の恐れがあるので要求には応じないこと<4>銃器の使用は警察庁の許可事項とすること<5>報道機関と良好な関係を保つこと<6>警察官の犠牲者を出さないよう慎重に行動することであった。

 あさま山荘への突入は物理的に困難と判断、人質の人命尊重を第1に持久戦に入った。このあさま山荘事件の指揮を取ったのは、長野県警本部長・野中庸であった。警備局参事官・丸山昂、警備局付警務局監察官・佐々淳行、公安第1課警視・亀井静香も現地入りした。軽井沢署に「連合赤軍軽井沢事件警備本部」が設置され、防弾チョッキ、鉄かぶとで武装した長野県警、群馬県警、機動隊750人が山荘を包囲した。

 あさま山荘は標高1169.2メートルに位置し、零下15℃で食事はすぐに凍ってしまった。警察にとっては流血とともに寒さとの闘いであった。このとき、緊急用に納品された日清食品の「カップ・ヌードル」が活躍することになる。

 犯人は屋内から銃を発砲してきたが、中の様子は分からなかった。2月20日(2日目)、警察と機動隊は何度もマイクで連合赤軍に呼びかけた。「君たちは完全に包囲されている。これ以上罪を重ねることはやめなさい」「人質を取るのは卑劣な行為である。管理人の奥さんを早く返しなさい。君たちの仲間はすでに逮捕されている。君たちも抵抗をやめて出てきなさい」、このように何度も呼びかけたが、連合赤軍は発砲で応じるだけだった。連合赤軍はバリケードを強化し、壁には警察部隊を狙撃するための銃眼が作られた。警視庁は狙撃班員を送り込み、装甲車3台が山荘を取り囲んだが、人質がいるのでうかつに手を出せなかった。

 2月21日(3日目)、警備心理学研究会の3人が現場に到着。心理学的には連合赤軍側が有利で、警察側が逆に追い詰められていると分析。警察は疲労を避けるため交代で休息し、明かりや音で犯人たちを眠らせない作戦をとった。夕方、吉野雅邦の両親と坂口弘の母親(58)がヘリで現場に駆けつけた。吹雪の中でマイクを握りしめた2人の母親は切々と呼びかけたが何の反応もなかった。

 2月22日(4日目)、吉野雅邦の両親と坂口弘の母親を乗せた特型警備車が山荘玄関前に接近し説得を再開した。「きのう、ニクソンが中国に行ったのよ。社会は変わったの。銃を捨てて出てきなさい」。事実、2月21日には、ニクソン米大統領が北京で毛沢東と会談し、米中間の国交正常化が実現していた。吉野の母親が「お母さんを撃てますか」と子供を叱るような涙声で叫んだ。ところが吉野はためらわずに銃を発砲、弾は母親を乗せた特型警備車に命中した。

 午前11時40分頃、新潟でスナックを経営している田中保彦さん(29)が北側斜面をよじ登り南側玄関に近づた。田中さんは事件のテレビ放送を見ていて「今の学生はけしからん。俺が説得してくる」と新潟から現場へとやって来たのだった。警察官もマスコミもあっけにとられていると、玄関のドアから内部に向かって呼びかけた。「赤軍さん、赤軍さん、私も左翼です。人質の奥さんは元気ですか。あなた方の気持ちは分かります。中へ入れてください。私も警察が憎い。私は妻子と離縁してきた。俺が身代わりになる」、そう言いながら警察隊に向かって手を振った瞬間、田中さんは拳銃で打たれその場に倒れた。

 田中保彦さんはフラフラと立ち上がり道路への階段をはい上ってきた。警備車が前進して機動隊が素早く救助した。「ああ痛え。おれか?おれは大丈夫だ」とつぶやいたが、意識はもうろうとしていた。田中さんは救急車で軽井沢病院へ搬送されたが、銃弾が脳内にとどまっていることが分かった。佐久病院に移送され、弾の摘出手術を受けたが、3月1日に死亡した。この事件で初めての犠牲者となった。

 事態は進展しないまま時間だけが過ぎていき、報道は過熱するばかりであった。あさま山荘の攻防戦を見ようと、野次馬の数が次第に膨れ上がり、別荘付近の違法駐車は3000台、野次馬の数は2000〜3000人となり、屋台まで立ち並んだ。テレビは連日実況中継を続け、ドラマにはない迫力を伝えた。その一方、地元農民は土のうを作り、主婦は食事を用意し、別荘所有者は放水用の水道水を提供するなど警察に協力した。午後2時39分、装甲車の後ろにいた警官に犯人が発砲し、巡査部長(30)と巡査(22)が負傷した。

 捜査本部は警備車に拡声器を取り付け、催涙ガス弾の発射音、機動隊指揮官の号令、警備車のディーゼルエンジン音などの録音テープを流し、屋根に投石するなど犯人たちを眠らせないようにした。さらに発砲を挑発し、弾薬を消耗させようとした。午後8時、連合赤軍がニクソン大統領の中国訪問をテレビで見ていたとき、警察はあさま山荘への送電をストップした。テレビが見れなくなったため、連合赤軍は携帯ラジオで警察の動きを探ることになった。

 2月23日(5日目)、坂東国男の母親(47)が呼びかけに協力したが効果はなかった。山荘では銃眼の数を増やし、バリケードも補強されていった。警察側は山荘南の道路に土塁を築いたが、連合赤軍は作業中の警察に発砲を繰り返した。警察側は発煙筒10発、催涙ガス弾21発を使用して山荘に近づき、人質の安否確認のため強行偵察を行ったが、成果は得られなかった。

 2月24日(6日目)、泰子さんの夫の郁男さん、父親、弟による呼びかけが行われた。人質となった泰子さんはいたたまれず、連合赤軍に「夫を安心させたいので顔を出させてください」と哀願したが、坂口はこれを拒否。午後4時10分、警察は「君たちが抵抗をやめないので、われわれは武器を使用する」と呼びかけ、銃眼に向け高圧放水が開始された。放水した水は屋根や軒から流れ落ち、すぐに凍って氷柱になって垂れ下がった。やがて玄関のドアのガラスが破られ、そこを狙ってガス弾が撃ち込まれた。坂東と加藤が山荘の銃眼から放水車めがけて猟銃を発射した。

 2月25日(7日目)、警察は土のうを積み上げ、連合赤軍はバリケードを補強して猟銃を乱射した。軽井沢署では毎日、記者会見が開かれ、取材記者数は600人を超え、カメラマンも約600人になった。

 2月26日(8日目)、軽井沢町の「ますや旅館」の大広間で、長野県警本部とマスコミとの間で「Xデー取材報道協定締結」のための会議が開かれた。日刊紙、週刊誌、月刊誌、ラジオ、テレビ合計56社が集まった。一方、同日の夜、坂口、坂東、吉野の3人は、警察の攻撃があっても泰子さんを解放せず、中立を守らせることにした。泰子さんを呼んで、「もし警察が攻めてきても、顔を出したり、逃げたりしないでもらいたい。警察がきても、われわれが守る」と伝えた。

 泰子さんが「こんなことで、ここで死にたくない」と答えると、「われわれはここで死んでも本望だ」と言い切った。泰子さんが、「私を盾にして脱出しないでください。それから後で裁判になったときに、私を証人に呼ばないでください」と言うと、「分かった。われわれは言ったことは守る」と答えた。

 2月27日(9日目)、この日のラジオは警察の動きに関する放送はなくなり、坂口らは警察が何か仕掛けてくるのではないかと推察していた。マスコミは、「報道協定」により、警察の動きが分かるようなニュースを流さないようになっていた。この日も土のうを積み上げる作業が行われ、屋根裏の銃眼から合計10発の発砲を受けた。警察は犯人の逃走を警戒し、現場周辺に警察犬5頭を野放しにした。

 ついにそのときが来た。連合赤軍が立てこもってから10日目を迎えた2月28日がXデーとなった。警備部隊1635人、特型警備車両9両、高圧放水車4両、10トン・クレーン車1両が集結した。「君たちは何の罪もない泰子さんを監禁している。監禁時間は200時間を超えた。もうこれ以上待つことはできない。泰子さんを解放して銃を捨てて出てきなさい」。午前9時50分、警察からの最後通告がスピーカーから発せられた。

 「山荘の犯人に告げる。君たちに反省の機会を与えようとしたが、君たちは何ら反省を示さない。最後の決断の機を失って一生後悔することのないよう考えなさい。今こそ君らの将来を決するときだ。間もなく泰子さんを救出するため突入する」。

 最後通告の後、バルコニーや風呂場に向かって一斉にガス弾が撃ち込まれた。同時に銃眼めがけて高圧放水が開始された。連合赤軍は特型警備車、放水車に向かって狂ったように銃を撃ち始めた。

 午前10時25分、クレーン車が接近、アームにつり下げられた2トンの大鉄球が山荘の壁にぶつけられた。大鉄球の2撃、3撃が壁を壊していった。そのすき間を狙ってガス弾が撃ち込まれ、放水が続いた。連合赤軍は猟銃、拳銃、手製爆弾などで抵抗した。

 午前11時17分、山野決死隊が3階南西側管理人室から山荘内に突入、11時24分、長田幹夫中隊が1階に突入して占拠した。犯人らは狂ったように銃を乱射し、午前11時27分、吉野が放水車を指揮していた警視庁特科車両隊の高見繁光警部(42)を散弾銃で狙撃し、弾丸は前額部に命中、高見警部は病院に運ばれたが殉職した。

 警視庁第2機動隊の大津高幸巡査(26)は土のうを飛び越え山荘内に突入しようとしたが、山荘正面の銃眼から散弾銃で撃たれ、土塁の反対側に転落した。同僚2人が大盾をかざして大津隊員を助け出したが、大津隊員は左眼に無数の鉛の粒弾が当たり、左眼を失明する重傷を負った。午前11時54分、坂東が警視庁第2機動隊長の内田尚孝警視(47)をライフル銃で狙撃し、内田警視は病院に運ばれたが殉職した。

 午後0時38分、警察庁から拳銃使用の許可が出た。警官2人を殺された機動隊員は興奮し、「弔い合戦」を希望した。しかし、「冷却期間」を置くため、機動隊は午後1時、攻撃を一時中断。午後2時50分、3階調理室を確保していた部隊に鉄パイプ爆弾が投げ込まれ、牧嘉之巡査部長(28)の右耳鼓膜が破れるなど警官5人が負傷した。

 犯人たちを3階のベッドルームまで追い詰めた機動隊は、狭い室内に突入するための4人の決死隊を編成した。決死隊は警視庁9機動隊から2人、長野県機動隊から2人が選出された。決死隊の4人は人質奪還だけではなく、殉職した隊員の名誉を背負っていた。

 午後3時30分、決死隊4人が突入した。高圧放水、ガス弾の一斉射撃により、「いちょうの間」の連合赤軍は耐え切れず、北側の窓ガラスを割って交代で外の空気を吸おうとした。警察はさらに、「いちょうの間」と隣の談話室(食堂)の壁を壊し始めた。「いちょうの間」は30センチ浸水し、連合赤軍はライフルや拳銃で抵抗したが壁の穴はさらに広がっていった。

 午後6時20分、決死隊は一斉に「いちょうの間」に飛び込み5人を逮捕。ベッドに横になっている人質の泰子さんを発見して救い出した。泰子さんはふとんにうずくまり、ぐったりとしていた。連合赤軍の籠城から約219時間が経過していた。

 報道陣は協定を守り、山側のロープにカメラを並べ待機していた。午後6時21分、犯人たちは身体から湯気を発しながら、舌をかみ切らぬよう「さるぐつわ」をされて、報道陣の前に姿を現した。「人殺し」「お前たち、それでも人間か」「殴れ、殴れ」、記者たちからも罵声(ばせい)が飛び交い、本気で殴りかかろうとする者もいた。

 この「あさま山荘銃撃戦」で、警察側は3人が死亡(うち1人は民間人)、27人が重軽傷を負った。連合赤軍の5人はかすり傷を負った程度であった。警察はこの「あさま山荘銃撃戦」で、催涙ガス弾3万1296発、発煙筒326発、ゴム弾96発、現示球83発、放水量15万8500リットルを使用したが、拳銃はわずか16発で、それは威嚇射撃であった。一方、連合赤軍側が発砲した弾は104発だった。

 「あさま山荘」事件に費やした予算は国費2675万6000円、県費6983万7000円の総額9659万3000円となった。現場には現金75万1615円(M作戦で強奪したお金など)が残されていた。同日、坂東の父親の基信(51)は大津市の自宅で、「死んでおわび申し上げます」と遺書を残し、首つり自殺した。

 この日、各テレビ局は番組を変更して現場中継を流し続けた。NHKは午前9時40分から午後8時20分まで連続放映し、視聴率89.7%を記録した。民放もCMを削減して、現場の生々しい光景を放映し、累積到達視聴率は98.2%に達した。国民のほとんどがテレビの前でくぎづけになっていたのである。まさに全国を震撼(しんかん)させた事件だった。

 逮捕された5人のうち、坂口弘幹部は死刑が確定。超法規的措置で出国した坂東国男を除く3人は服役、刑期を終えるなどしている。