高カロリー輸液

高カロリー輸液 昭和42年(1967年)

 医療において輸液という手段がなかったら、食事のできない患者は脱水から腎不全をきたして死を待つだけになる。この輸液は、1832年にアイルランドの医師ラッタが、瀕死のコレラ患者15人に生理食塩水を静脈に注入して5人の命を助けたのが最初である。しかしラッタの輸液療法は学会で疑問視されたため普及せず、80年後に英国の病理学者ロジャースがインドのカルカッタでコレラ患者に輸液を行い、患者の死亡率を下げたことから輸液が一般的となった。

 点滴は脱水に著効を示し、特に小児の下痢には効果が大きかった。20世紀になると電解質に関する代謝学が進歩し、細胞内液、細胞外液の概念が確立し、輸液は普及するようになる。輸液には電解質欠乏、水分不足、出血などを補充するもの、特殊な薬剤を注入するものなどがある。輸液療法は一般的治療となったが、電解質と水分の補給が主で、栄養状態を改善させるまでには至っていない。点滴は目で見える四肢の皮下静脈に注射針を刺すが、この末消血管への点滴は水分と電解質の補給のみである。点滴のカロリー(糖分)を高めると末梢血管は炎症を起こして壊死するため、低カロリーの輸液のみの注入であった。

 人間が生きていくには栄養が必要で、毎日2000カロリー必要とされている。だが末梢静脈から5%のブドウ糖を含んだ点滴を1.5リットル注入しても300カロリーにしかならない。注入できる点滴量には限界があるため、栄養補給の問題は未解決のままであった。重症患者にとって低栄養状態が続けば創傷の治癒は遅くれ、感染にかかりやすく、最終的には栄養不良から衰弱死をきたすことになる。末梢静脈からの輸液では栄養補給の壁を乗り越えることができなかった。

 この栄養の問題を解決したのが高カロリー輸液である。昭和42年、アメリカのダドリック博士が中心になり、身体の深部にある太い静脈に直接チューブを入れて点滴をする画期的な方法を考案した。ダドリック博士は高濃度のブドウ糖とアミノ酸の混合液を子犬の太い血管に入れ、点滴だけで子犬の成長を可能にした。

 人間では心臓の近くにある鎖骨下静脈、あるいは足のづけ根の鼠径静脈などに直接カテーテルを挿入することで高カロリー輸液を可能にした。太い静脈は血管が丈夫で、血液の流量が速いため、高濃度のブドウ糖液を滴下しても損傷をきたさないのであった。つまり経口摂取が不可能でも、食事と同じカロリーを点滴で与えることができた。理論的には、食事ができなくても点滴だけで生きていけるようになった。

 中心静脈点滴法栄養補給だけでなく、チューブの先端を心臓の近くに置くため、心臓内圧を測定することができた。重症患者を治療する場合、その患者が脱水状態なのか、余分な水分が心臓に負担をかけている心不全状態なのかで、投与する輸液量は全く違ってくる。この判断に迷う場合、中心静脈の圧を測定すれば、どちらの病態なのか判断できるのだった。

 病院に行くと、胸や首から点滴をしている患者さんを多く見ることができる。これらが高カロリーの点滴である。消化管の手術で食事が取れない患者、重症で食事の取れない患者、彼らはこの高カロリーの点滴の恩恵を受けている。まさに高カロリー点滴は医療そのものを大きく変えた。

 高カロリーの点滴が普及したのは、昭和55年ころからで、この点滴法は医師ならば基本的手技として多くが習得している。高カロリーの点滴は、利点は大きいもものその手技には常に危険が伴っている。まず肉眼では見えない皮下深部の太い静脈に、解剖学的知識のみで太い注射針を挿入するので、失敗することが多い。末梢の血管ならばたとえ失敗しても合併症は少ないが、高カロリーの点滴は太い血管に刺すので、平行して走る太い動脈を刺したり、肺を傷つけたりすることがある。このように生命の危険に結びづくことがあるので、施行時には患者からの承諾書を得てから行われる。動脈や静脈の走行は個人差があるので、たとえ熟練した医師でも100%成功するわけではない。また高カロリーの点滴は長期間固定するため穿刺部位から感染することがある。

 かつての点滴にはビタミン剤が混注されていたが、ビタミン剤の乱用と非難され、平成4年の診療報酬改定で、食事ができる患者さんの点滴にはビタミン剤の混注が禁じられた。そのため高カロリー輸液を受けている患者の場合もビタミン混注は禁止されていると誤解され、全国の病院からビタミン剤が一斉に引き上げられた。

 その結果、高カロリー輸液を受けている患者さんにビタミンB1が不足し、ウェルニッケ脳症を起こす例が出るようになった。ビタミンB1が徐々に欠乏して末梢神経が冒されれば脚気になるが、ビタミンB1が急速に減少すると中枢神経が冒され、ウェルニッケ脳症を引き起こすのである。

 一般的に食事をしないで、2週間ビタミンB1を取らないと、体内のビタミンB1が欠乏してウェルニッケ脳症になる可能性が高くなる。脳の脚気と呼ばれるウェルニッケ脳症の死亡率は1〜2割で、助かっても意識障害、健忘、歩行障害、人格障害を残す。特に問題なのは前向健忘症で、前向健忘症とは病気になる以前の記憶は残っているが、発症後に記憶が定着しない障害である。つまり朝食を取ったのか、風呂に入ったのか、直前の記憶が抜けてしまうのである。

 平成7年4月、点滴によるウェルニッケ脳症が警告されたが、その後も続出し、京大病院(平成7年)、東大医科研病院(平成8年)でもウェルニッケ脳症で訴えられている。高カロリーの点滴は食事の取れない患者に行われるため、特に老人の場合はウェルニッケ脳症と診断されず、老人ボケ、老衰などと診断されて死亡した患者が多いと予想される。このように大学病院でも死亡例が報告されおり、高カロリー輸液には必ずビタミンB1を混注することである。