白い巨塔

白い巨塔 昭和40年(1965年)

 山崎豊子が昭和38年からサンデー毎日に連載した「白い巨塔」が昭和40年に新潮社から出版され、翌41年に映画化(大映)されると、大きな反響を呼んだ。昭和44年に「続・白い巨塔」が出版され、白い巨塔は息の長いベストセラーとなった。

 白い巨塔は欲望と野心が渦巻く医学界を描いた異色のベストセラーで、大学医学部をテーマにした小説としては、白い巨塔を超える小説はないといっても過言ではない。教授選をテーマに医学界の暗部に鋭いメスを入れ、350万部を売り上げ、映画化のほかテレビドラマにもなっている。

 浪速大学第1外科の教授選、その後に起きた医療訴訟をめぐり、「白い巨塔」は医学部の裏に隠れた暗部を赤裸々に描いていた。聖域とされていた医学部、ヒエラルキーのトップに立つ教授の権力、医局内の序列化、閉鎖された医局の壁と派閥、金と名誉に揺れる医師たちの心理…、白い巨塔はこのようなドロドロとした医学部内部を見事に描いている。

 主人公の財前五郎、その友人で医師として誠実に生きようとする里見脩二を中心に、医学部の実情をダイナミックな人間模様として描いている。

 財前五郎は早くに父を亡くし、貧しい生活から医学部に進み、資産家である婦人科開業医・財前又一の婿養子になって実力をつけてきた。浪速大学第1外科の助教授となり、食道がん、胃がんの権威となり、教授を差しおいて財界人の手術を行い、マスコミの脚光を浴びるようになった。

 第1外科教授・東貞蔵は退官を間近に控え、後任の教授を誰にするか悩んでいた。財前五郎が後任教授になると周囲は評価していたが、東教授は財前の傲慢な性格を嫌い、部下が有名になることに嫉妬があった。東教授は母校の外科学会のボスに相談、金沢大学医学部教授・菊川昇を後任教授に推薦してもらった。

 財前五郎はこのことを知ると、猛烈な巻き返しを始める。財産家の義父は教授の名誉を娘婿に与えるため必死になる。財前は義父の財力、地元医師会とOBの後押しを受け、熾烈(しれつ)な教授選で勝ち残ろうとする。財前派は医学部長に高額な絵を送り、学会の理事への推薦、研究費の認可をちらつかせ、財前五郎はわずかな差で教授選に勝った。

 財前五郎は教授に就任すると、国際外科学会から招待を受ける。権力と名誉を手に入れ、まさに得意の絶頂にあったとき、第1内科の里見助教授からある腹痛患者の診察を依頼される。里見助教授は財前と病理学教室で一緒に学んだ親友であった。

 里見脩二は胃カメラで異常がなかった腹痛患者の診断を財前に依頼したが、財前は2枚の胃のレントゲン写真から噴門がんと診断した。術前検査で肺に異常な陰影があったが、里見助教授の指摘にもかかわらず、財前は自らの実力を過信し、がんの肺転移を古い結核の陰影と診断した。

 多忙の中で手術は成功し、患者の治療を医局員に任せドイツの国際外科学会に行くが、外遊から帰ると、待っていたのは患者の死であった。患者の家族は手術後一度も診察に来なかった財前の不誠実な態度に憤慨し裁判に訴えることになる。

 里見助教授は、大学での自分の立場が不利になることを承知で患者側の証人となる。医療裁判の判決は予断を許さなかったが、財前は証人に圧力をかけ一審で勝訴する。財前五郎は教授として前途に野望を持ち、学術会議選挙にも当選するが、二審の裁判では注意義務違反で敗訴、最高裁に上告することになる。財前五郎は過労の中、いつしか胃がんにむしばまれていた。里見脩二は裁判で不利な証言をしたため近畿癌センターに左遷されていたが、財前は里見に診断を仰いだ。孤高の学究肌の里見、典型的な権力志向である財前、この対照的な2人は対立しながらも互いの実力と友情を認めていた。

 財前は自分を追い出そうとした元教授の東貞蔵に手術の執刀を依頼、東貞蔵が財前の手術をすることになった、しかし開腹すると、胃がんは肝臓に転移していて、手の下しようがなかった。開腹したが何もできずに、そのまま縫合。財前は肝不全で意識がもうろうとなりながら死亡した。

 白い巨塔は医学部における野望、学問、友情、愛情、処世、名誉、それらを交錯させながら、医学界の知られざる実態と人間の生命の尊厳を描いていた。この小説には多くの人物が登場するが、読者はそれぞれの登場人物に感情移入するほどに見事に描かれていた。

 当時の大学付属病院はまさに「白い巨塔」だった。権威主義がはびこり、教授の発言、医師の医療行為は絶対であった。一般の人々はそのような医学部の権威主義を知っていたが、詳しい内情は知らなかった。権威に反発するよりも、権威への尊敬と恐れが大きかった。

 そのため戦前の医療訴訟は12件のみで、昭和20年から40年まででも9件にすぎなかった。この小説は大学病院内の権力闘争と葛藤(かっとう)だけでなく、患者の権利としての医療訴訟を先取りした小説といえる。

 昭和41年の映画化では、俳優の田宮二郎が主人公を演じ観客をうならせた。テレビドラマは42年(全26回、主役・佐藤慶)、53〜54年(全31回、主役・田宮二郎)、平成2年(4時間スペシャル、主役・村上弘明)に続き、平成15〜16年(全31回、主役・唐沢寿明)には連続ドラマとして25年ぶりの新バージョンが放映された。

 この中で特に田宮二郎ははまり役であったが、昭和53年12月28日、ドラマの最終回の放映を目前にして猟銃で自殺。それまで13%だった視聴率が、最終回(1月6日)は31.4%に跳ね上がった。

 作家の山崎豊子は、大正13年に大阪に生まれ、京都女専国文科を卒業して毎日新聞大阪本社に入社。当時、学芸部副部長であった井上靖の下で記事の書き方の指導を受け、勤務のかたわら小説を書いていた。昭和32年、昆布商人を主人公に大阪商人の哲学を描いた処女作「暖簾」を発表。翌33年には「花のれん」で直木賞を受賞。同年、毎日新聞を退社すると執筆活動に専念した。その後、「女の勲章」「女系家族」「花紋」「ぽんち」など次々に作品を書き、白い巨塔、続・白い巨塔を書いた。

 さらに山崎豊子は銀行の内部の熾烈な戦いを描いた「華麗なる一族」。国際商戦を生き抜く商社マンをテーマにした「不毛地帯」。太平洋戦争中、日米2つの祖国の間で苦悩する日系二世を描いた「二つの祖国」。中国残留孤児をテーマとした「大地の子」の戦争3部作を書いた。航空業界を描いた大作「沈まぬ太陽」を発表して、平成3年に菊池寛賞を受賞している。