心身障者安楽死事件

心身障者安楽死事件 昭和42年(1967年)

 昭和42年8月2日、生まれてから27年間寝たきりだった重症心身障害者の息子を、医師である父親が思いあまってエーテルをかがして絞殺する事件が起きた。東京都千代田区に住む開業医・Mは結婚してすぐに子供が生まれたが、息子は脳水腫症で手足を動かすことができず、精神薄弱で寝たきりであった。この間、母親は下の世話から食事の世話まで、つきっきりで介護し、自分の時間のない生活を送っていた。

 M医師は70歳近い高齢になり、自分のうつ病の持病も悪化したため医院を廃業。自分の先が短いと思った父親は、後追い心中を決意した。母親が買い物に行って留守になったとき、父親は息子に苦痛を与えないようにエーテルをかがせ、意識不明にした上で「許してくれ」と言いながらタオルで絞殺した。父親は多量の睡眠薬を飲みガス自殺を図ったが、帰宅した妻に発見され一命を取り止め、妻に付き添われて警察に自首した。

 安楽死裁判が行われた。弁護側は絞殺された息子は不治の病で、収容先もなく、行く末を案じての安楽死であったこと、また父親はうつ病のため心神喪失状態だったと主張した。検察側は、わが子のために尽くしたことは認めるが、殺人という手段よりも改善策を国などに働きかけるべきだったとして、殺人罪では最も軽い懲役3年を求刑した。母親は「私も子供を殺して自殺しようと何度も思った」と証言、主人を責めることはできないと泣きくずれた。

 昭和43年12月4日、東京地裁で判決が下された。傍聴席は心身障害児を持つ親たち、法律を専攻する学生たちであふれていた。清水春三裁判長は、「罪なきものと決めつけることはできないが、犯行時、父親は心労の余りうつ病による心神喪失状態にあった」として、無罪の判決を下した。裁判長は弁護側の主張を認め、感情を持たぬ子供を育てたM医師の苦労を容認する発言をした。父親の行為は殺人ではあるが、その動機には愛情と人情が含まれていた。この判決文の朗読の際、満員の傍聴席からもらい泣きの声が流れた。

 この事件は大きな問題を抱えていた。1つは、「回復の見込みのない生きる屍(しかばね)となった息子を生かすことは、苦しみを与えるだけ」とする父親の殺害動機である。息子は27年間、父親に笑いも喜びも与えてくれなかった。ここに父親の情、葛藤(かっとう)、苦悩があり、このことから裁判官は温情判決を下したのである。

 父親が息子を殺害したのは、息子を思考力のない者と捉えていたこと、自分が高齢になって息子の介護ができないと思ったこと、息子を生かし続けることが息子の生命を尊重することにならないと思ったからである。この父親の心情は十分に理解できた。

 父親は「人の生命は神様でも奪うことはできないのだから、自分の行為は間違っていた。もし息子に少しでも感情があればやらなかった」と罪を償おうとした。裁判官は父親のうつ病を理由に無罪の判決を下したが、それは法律上の理屈を利用したにすぎない。裁判官は、安楽死を是認するのではなく、父親の精神病が息子を殺害したとして無罪にしたのである。

 実際には、父親は親として、あるいは人間として正常な判断で息子を殺した。しかし裁判官は、息子が不治の病で、両親の肉体的、精神的苦痛を黙認できず、倫理的妥当性を考慮してこの判決を下したと思われる。この判決には、誰でも納得できる十分な事情があった。検察側は控訴せず、無罪が確定した。

 昭和40年の統計によると、心身障害児は約2万人とされている。それでいて心身障害児の収容施設は4380床だけであった。親が若くて元気なうちはまだよいが、親が死んだら誰が面倒をみるのか。心身障害児が収容施設に入れるのはわずかばかりで、成人の心身障害者が収容できる施設は皆無に等しかった。福祉の遅れがこの事件を招いたといえる。清水裁判長は「重症心身障害児を持つ親たちの苦労には頭が下がる。国の看護施設の強化を強く望む」と、異例の発言を加えた。

 父親は無罪になったが、医師である父親をここまで追い込んだ共犯者は国といえる。「無策だった国を無罪にはできない」、このことが心身障害児を抱える親たちの共通した気持ちだった。当時の齋藤邦吉厚生大臣はこの温情判決を支持し、施設整備などの対策に尽くすことを約束し、2度とこのような事件が起きないようにと述べた。