医師国家試験ボイコット

医師国家試験ボイコット 昭和42年(1967年)

 昭和42年3月12日、青年医師連合(36大学、2400人が参加)はインターン制度の完全廃止、医局の改善を要求して第42回医師国家試験をボイコットした。ボイコットした受験者は全体の87%に達し、受験したのはわずか13%、404人であった。各地の試験場では医学生やインターン生がピケを張りデモを行い8人が逮捕された。

 全国46の医科系大学のうち全員が受験の方針をとったのは、千葉大学、東京女子医大、昭和医大の3校だけで、千葉大学はいったん試験場に入り、56人が一斉に会場から退場した。

 青年医師連合が試験会場前に集結し、受験を阻止しようとしたため、試験会場には機動隊が動員され、装甲車が並ぶものものしい雰囲気になった。国家試験の東京会場では、学生400人が試験会場周辺でデモ行進を行い、機動隊と衝突して医学連委員長・木下信一郎ら7人が公安条例違反で逮捕された。

 大阪会場でも学生ら400人が会場にバリケードをつくり機動隊と衝突した。さらに札幌会場では50人がピケを張り機動隊と衝突、1人が公務執行妨害で逮捕された。全国の医学部の卒業生が医師国家試験をボイコットしたのはインターン制度の改善が目的であった。

 インターン制度は、昭和20年の終戦時に進駐軍の指令によって導入された研修医制度である。日本の社会は進駐軍の指令で、あらゆる分野の民主化が行われ、医学教育においても進駐軍の指導によりインターン制度が導入された。

 インターン制度とは、医学部を卒業した者は1年間病院で働き、その後に医師国家試験を受ける制度である。戦勝国であるアメリカの医療制度を取り入れた研修医制度であった。この制度の名前は、アメリカと同じインターン制度であるが、その内容はすべての面でアメリカとは異なっていた。教育のカリキュラムはないに等しく、また研修を裏づける予算もなかった。

 インターンの1年間は身分の保証はなく、医学士ではあるが医師でも学生でもない中間的存在であった。働いても無給与で経済的保証はなく、研修という名前の強制労働であった。インターン生として1年間各科を回り、自分にあった科を選択できたが、教育体制や指導者はないに等しく、職員の嫌がる便や尿の検査ばかり押しつけられた。

 不安定な身分や処遇への不満は大きく、昭和41年頃からインターン制度に反対する医学生の運動が全国的に広がった。「インターン制度を変えるには、インターンが終了しても医師国家試験を受けない」。この実力行使は非常に有効な戦術であった。大部分の受験者が医師国家試験をボイコットしたことは戦術的に成功であった。当時の医師不足は深刻で、医師国家試験のボイコットは医師不足をさらに深刻化させるとして厚生省を慌てさせたのである。厚生省は何とか国家試験を受けるように策を練るが、通用せず、うろたえるだけであった。

 医師を無給で働かせるインターン制度は政府にとって都合がよかった。しかしインターン制度は、あまりに医師の使命感に頼りすぎ、現実離れしていた。アメリカのインターン制度は、給料も支給され、教育体制も整っていた。そのため横須賀などの米軍病院でインターンを希望する者が多かった。なおインターンとは内にいる者、つまり住み込み医師制度を意味している。

 このインターン制度の混乱が、昭和42年の東大医学部卒業試験ボイコットを引き起こし、東大紛争の導火線となった。

 このインターン制度は東大紛争後の昭和43年に廃止され、以後、2年間の卒後臨床研修が努力規定として医師法に明記された。こ新たな臨床研修医制度は、大学卒業と同時に国家試験を受け、医師免許を得た後に指定研修病院で2年間研修する制度であった。しかし規定は「2年間研修することが望ましい」というもので、強制的制度ではなかった。この制度も平成16年から卒後臨床研修が義務化され、新しい研修制度になっている。

 インターン制度の発祥の地であるアメリカでは、医学校を卒業した学生は国家試験を受け、1年から2年の研修を終えると、専門的な研修を行うレジデント(病棟医)コースに移り、専門試験を受けて専門医になるのが一般的である。日本の研修医制度は形の上ではアメリカの研修医制度と似ているが、給料面、教育面においてははるかに劣っている。

 フランスでは「インターンはアンテルヌ(研修医)」と呼ばれている。平成12年4月にこのアンテルヌによる一斉ストが行われた。週60時間以上の過酷な労働条件、月給約12万円の改善を求めてのストであった。このストは労働条件の改善と月給の上乗せをフランス政府が約束して解決した。医療制度を安くすませようとする政府の思惑、それに反発する研修医の闘争は日本だけの話ではないのである。