赤ちゃん取り違え事件

赤ちゃん取り違え事件 昭和40年(1965年)

 自分のおなかを痛めた子供が、手塩にかけて育てた子供が、実は他人の子供だったら、母親のショックは言葉では表現できないことであろう。このような信じ難い事件が昭和40年頃日本各地で多発した。

 滋賀県大津市に住む大学助教授Yさん夫婦には、4月から幼稚園に通う4歳の長男がいた。Yさん夫婦は交通事故の痛ましいニュースを頻回に耳にすることから、入園を機会に子供の血液型を調べて名札に書いておこうとした。そのため長男を近くの病院に連れて行き、血液型を調べてもらった。その結果、驚くべき事実を知ることになった。

 Yさん夫婦の血液型はともにB型であったが、長男の血液型はなぜかA型だった。B型の両親からA型の子供は絶対に生まれるはずがなかった。Yさん夫婦はこの結果に驚き、頭を抱え込んでしまった。妻の不貞は考えられず、残された可能性は、長男が生まれた大津日赤病院での取り違えだけであった。連絡を受けた大津日赤病院では、当時の入院患者をひそかに調査すると、同じ大津市に住む土建業Aさんの子供と、Yさん夫婦の子供が取り違えられていたことが明らかになった。

 生まれたばかりの赤ちゃんは、赤ちゃんの足の裏にマジックインクで名前を書いて識別していた。しかしインクが蒸発して赤ちゃんが中毒症状を起こす可能性があったため、この方法は中止され、次に木札を胸にぶら下げる方法が採用されたが、赤ちゃんのけがが心配された。

 そのため大津日赤病院では、識別票を付けずに赤ちゃんを扱っていた。出産直後から赤ちゃんを母親のそばに同室させる方法を採用し、赤ちゃんの取り違えは予想外であった。YさんとAさんの「赤ちゃんの取り違え」は、生後3日目の入浴時に起きた。赤ちゃんは1日1回入浴することになっていたが、生後3日目のYさんとAさんの赤ちゃんの入浴時間が同じだった。

 看護師不足の病院では、看護師が両腕に2人の赤ん坊を抱えて入浴させることが日常的に行われていた。母親にとって五体満足の赤ちゃんを無事に出産した安堵感、さらに出産後の疲労も重なり、自分の子供の取り違えに気づかなかった。

 「自分の産んだ赤ちゃんを間違えるはずはない」と思うかもしれないが、出産後の赤ちゃんは顔のむくみが次第に取れ、毎日のように顔の表情が変化していくのである。たとえ多少顔つきが違っていても、まさか自分の赤ちゃんが取り違えられたとは想像外のことであった。

 取り違えられた子供は、すでに物心のついた幼稚園児である。子供を交換するといっても簡単なことではない。オッパイを含ませ、おしめを取り替え、鼻が詰まったときには口で吸い、生まれたときから自分の子供として育ててきたのである。4年間も実子として育ててきた子供を、他人の子供だったからと言われ、「ああそうですか」と割り切れるはずはなかった。

 間違って育てられた子供も大変であった。昨日までAちゃんと呼ばれていたのが、違う両親からBちゃんと呼ばれ、昨日までお兄ちゃんと呼んでいたのに、昨日までのお兄ちゃんとは違って、明日からは別のお兄ちゃんをお兄ちゃんと呼ばなければいけなかった。このようなことは子供には理解困難なことであった。

 YさんとAさんの家族は相談の結果、しばらく一緒に生活をして、徐々に慣れさせていくことになった。市内の旅館で2組の家族が19日間の共同生活を行い、子供の反応を見ながら実子を引き取ることになった。母親にとって、「実の子供」も「育ての子供」も、子供を思う気持ちに変わりはない。「知らないで過ごしていれば幸せだった。血液型なんかなければ良かったのに」と科学の進歩を恨んだりもした。

 だが、知ったからには仕方がない。泣く泣く交換に踏み切ったのである。両夫婦の苦悩、子供の戸惑い、これらは他人が想像する以上に大きなものであった。子供を交換しても、それまでの子供を忘れることはできなかった。子供は本当の両親を「お父さん」「お母さん」と呼べず、夜になると育てられた家に帰りたいと泣いて両親を困らせた。

 昭和40年頃から「赤ちゃんの取り違え事件」が全国で多発した。広島県福山市、山形県米沢市、静岡県吉原市(現富士市)、三重県四日市市、同県員弁郡の病院で同様の事件が起きている。昭和48年の学会で、東北大学医学部の赤石英教授は「赤ちゃんの取り違えは全国で64人」と報告、いずれのケースも実子を引き取っていると述べた。

 この赤ちゃん取り違え事件は、当時のベビーブームに加え、看護師の多忙が関係していた。産婦人科の看護師は、次々に生まれる赤ちゃんに追われ戦場のような忙しさだった。この「赤ちゃん取り違え事件」は看護師不足が生んだ悲劇であった。

 医療法では新生児は患者数にカウントされず、新生児数とは無関係に看護師定数が決められていた。しかしこのような事件が多発したため、昭和43年から新生児4人に対して看護師1人を置くことが法律で定められた。赤ちゃん取り違え事件は看護師の過誤ではあるが、行政の責任はそれ以上に重いと考えられる。

 この事件以降、親子の識別のため、母親の腕と赤ちゃんの足には同じプラスチックのバンドが付けられるようになった。プラスチックのバンドは出生時に付けられ、入院中はいかなる理由でも外すことはできず、帰宅した後に外すようになっている。このバンド以降、赤ちゃん取り違え事件は起きていない。