無給医局員診療拒否闘争

無給医局員診療拒否闘争  昭和41年(1966年)

 当時の医師育成制度は、医学部を卒業した医学生は1年間の実地研修が義務づけられ、研修後に初めて医師国家試験の受験資格が得られるインターン制度であった。この仮免許のインターンを終え、医師国家試験に合格して初めて医局に入局することになるが、医局に入局しても給料はもらえず、研究と診療にあたっていた。このインターン制度、無給医制度は、医学教育の名前を借りた医療労働の搾取で、この矛盾に満ちた研修制度に無給医たちが立ち上がったのである。

 昭和38年9月、名古屋大学医学部の無給医が全国に呼びかけ、医局無給医の全国的組織ができあがった。昭和39年4月、名古屋で全国無給医代表者会議が開催され、15の大学の代表50人が参加した。昭和40年12月には、無給医局員は待遇改善を求め、東京大学、名古屋大学、群馬大学の各付属病院で「1日診療拒否」を行った。この闘争には3大学で340人が参加し、経済的裏づけのない無給医局員の実情を訴えた。

 この診療拒否闘争は、国民に理解を求めるため「診療専念日闘争」と名づけられ、無給医の実情を社会にアピールした。だが1日だけの診療拒否では何ら解決には至らず、翌年には全国レベルでの闘争を展開することになる。

 昭和41年6月24日、全国医学部無給医局員対策委員会の呼び掛けにより、無給医による全国規模の「1日診療拒否」が行われた。この日の統一行動に参加したのは16の国公立大学で、無給医局員は診察をボイコット、待合室や玄関でビラを配り、無給医局員のただ働きの実情を訴えた。彼らの行動により無給医局員は世間の注目を集めることになった。

 名古屋大学では540人の医師が「適正医療」を名目にストに入り、無給医は名古屋駅前で3万枚のビラを配った。適正医療とは、責任のない無給医に病院の診療をさせるのではなく、有給医のみが診療に当たることを意味していた。このように16の国公立大学で診療拒否が行われたが、各大学病院の足並みは揃わず、東京大学では精神神経科、耳鼻科の無給医だけがストに加わった。

 医学部の医局において教授は絶対的権力を持っていた。そのため診療拒否闘争は生殺与奪を持つ教授に逆らうことになった。現状を変えようとする闘争は、医師としての将来をかけての闘いであった。

 医学部の各診療科は教授をトップとした医局によって構成され、国家試験に合格した若い医師は医局に入り、教授の指導で患者の診察や研究を行っていた。医局員の数が100人を超える医局もあり、このような大所帯では、大学が給料を支払える有給医師には限りがあった。医学部は文部省の管轄で、文部省が決めた定員は各講座に所属教員が5人(教授1、助教授1、助手3)、附属病院は4人(講師1、助手3)と規定されていた。大学の職員として文部省が給料を出しているのが有給医師で、それ以外が無給医局員であった。大学の有給医師は教育や研究に専念し、病院の有給医師は診療に専念することが建前となっていたが、医局のピラミッド構造を支えていたのが無給医局員で、この無給医局員が今回の闘争の主役であった。

 無給医局員は給料をもらえず、逆に研究費を徴収する医局も少なくなかった。無給医局員の多くはアルバイトをしながら博士論文のために研究に打ち込んでいた。しかも試薬、実験動物、試験管などの研究費は自前のことが多かった。無給医局員は大学の職員名簿に名前がなく、保険に入れず、アルバイトで生活費を稼ぎながら研究をしていた。

 医学博士の学位をもらうまでの数年間はこの状態が続くことになるが、もし大学教授の地位を狙うならば、この状態はさらに長く続くことになる。よほどの金持ちの息子でもないかぎり、過酷なアルバイトをしなければ生活はできなかった。

 無給医局員は労災や病気の保障はなく、もしものことがあれば、無収入となって妻子を路頭に迷わすことになった。文部省の調査では、昭和41年の国立大学病院の無給医局員は8238人、教授から助手までの有給医局員は4147人であった。私立医科大を含めると有給医局員は1万3000人で、大学病院で働いている約7割の医師が無給医であった。また大学病院には2400人の大学院生が診療していたので、大学院生を加えると無給医局員は8割を超えていた。医局の構造はまさに異常であった。このように無給医局員が多かったのは文部省に予算がなかったからで、これでは腰を落ち着けて診療、研究などできるはずはなかった。