東大紛争

東大紛争 昭和43〜44年(1968〜69年)

 昭和43年から45年にかけ、大学改革をめぐり、大学紛争の嵐が日本中で吹き荒れた。ヘルメットをかぶった学生が大学を占拠し、日本中が騒然となった。この大学紛争は日本だけでなく、むしろ世界各国の若者が立ち上がり、「スチューデント・パワー」と呼ばれる学生の反乱が海外から日本に伝染したといえる。

 パリのソルボンヌ大学では共産主義の赤旗とアナーキズムの黒旗が飜り、パリ市街は「パリ5月革命」の言葉が象徴するように、労働者と学生40万人がデモを行った。アメリカではベトナム戦争と大学の管理体制に反発し、学生たちは警官隊と衝突した。欧米の学生たちは既成体制を打破しようと、既存の権力に挑戦し、それに呼応するように日本の学生たちも権力に向かったのである。

 高度経済成長により大学の大衆化が進んだが、大学は戦前の体質を脱皮できずにいた。学生たちは大学の古い体質や権威主義への反発を強めていた。教授、助教授、助手、学生という古いタテ社会が下部から揺らいでいった。

 大学紛争の頂点を成したのが、22億円のヤミ給与事件に端を発した日大紛争であり、医学部の登録医制度が発端となった東大紛争である。日大闘争は大学の金儲け主義への抗議であり、東大闘争は学問の自由と独立への抗議であった。この東大・日大闘争が全国の大学闘争に波及した。

 東大紛争の発端は、東大医学部の学生がインターン制度に反発したことである。このインターン制度は、昭和21年にGHQから義務づけられたもので、医学部の学生は大学を卒業するとインターン(無給研修医)として病院で働き、1年間の実地研修を受けることになっていた。このインターンの1年が終了して、初めて医師国家試験を受験できる制度であった。

 このインターン制度は、アメリカの研修医制度の物まねであったが、日本のインターン制度は名前ばかりで、在日米軍病院を除けば研修カリキュラムはないに等しいものであった。インターン制度は、病院の労働力不足を補うためのタダ働き制度で、タダ働きを正当化するための名称といえた。

 東大ではインターン生(青年医師連合)たちが自主研修カリキュラムを作り、自主カリキュラムに基づく研修協約を病院に認めさせようとした。豊川行平医学部長や上田英雄医学部付属病院長は研修医たちが作成した「研修協約締結のための要望書」を受け取ったが、医学部当局はこれを徹底的に無視した。ちょうど国会で、インターン制度に代わる登録医制度が審議されていたので、大学側は学生の要請に応じる必要がないとして、学生の提案を無視する姿勢で臨んだ。

 昭和43年1月29日、東大医学部の学生たちは自分たちの提案を無視する大学当局に憤慨し、医学部学生自治会が無期限ストを決定した。学生たちは、新しい登録医制度は実質的にインターン制と変わらないとして、卒業試験のボイコット、インターン研修拒否などを掲げストに入った。この東大医学部の動きは他の大学にも波及し、春の医師国家試験ボイコットへと進展していった。

 大学当局との交渉が膠着(こうちゃく)状態に入った学生たちは、2月19日、病院内で上田病院長と春美健一医局長を偶然見つけ、話し合いを要求。話し合いを拒否する上田病院長と病室の前でもみ合いになった。患者のいる病室の前であったため、上田病院長は学生たちに内科医局で話し合うことを約束、場所を移すことを提案。この提案を学生たちは承諾して内科医局へ移り上田病院長を待った。

 ところがいつまで待っても上田病院長は現れなかった。上田病院長はすでに学外に逃亡していたのだった。怒った学生たちは院長の代わりに春美医局長を朝まで軟禁し、研修協約締結の要望を無視したことへの謝罪文に署名させた。この偶発的「春美事件」に対し、医学部教授会は首謀者と学生17人に対し4人の退学を含む懲戒処分を行った。

 ところが処分を受けた1人が、九州の久留米大学医学部にいて事件現場にいなかったことが確認され、「春美事件」は大学当局の「事実誤認冤罪事件」へ発展していった。医学部講師である高橋晄正と原田憲一は久留米大学に行き、その学生のアリバイを調査し、医学部教授会に報告した。しかし医学部教授会は誤認を認めず、高橋講師らの行動を教授会への反逆行為とした。

 学生たちはこの「春美事件」の処分撤回と謝罪を求めたが、医学部教授会はそれを無視する態度をとった。怒った学生たちは医学部の一部を占領し、安田講堂に座り込み、卒業式を阻止する構えをみせた。しかし、大学側は卒業式を中止したため混乱は避けられた。

 医学部のストライキには研修生や学生900人が参加した。学生たちは「春美事件」の処分撤回と医学部教授会との直接団交を迫ったが、大学は回答を示さなかった。この医学部ストライキは、医学部の各学年の代表者から成る「医学部全学闘争委員会」が闘争方針を立てた。医学部全学闘争委員会は、要求を無視する大学当局に対し、安田講堂占拠という起死回生の手段を決定した。

 安田講堂は、安田善治郎によって建てられた東大のシンボル的存在である。1738人が入れる講堂があり、東大総長室があり、安田講堂は東大の本部を兼ねていた。6月15日、東京医科歯科大生らの応援も加わり、80人の学生たちが安田講堂を占拠し立てこもった(第一次安田講堂占拠)。

 この時点では、東大紛争は医学部だけに限局した闘争であった。しかしこの安田講堂占拠への大学当局の対応のまずさが東大全学部紛争へと進展させた。安田講堂が占拠された2日後の6月17日、東大総長・大河内一男は突然1200人の機動隊を大学構内に入れ、安田講堂から医学部学生の排除を図った。機動隊によって学生たちは排除されたが、この機動隊導入が大失敗であった。学生にとって機動隊は、安保闘争、羽田闘争で自分たちの仲間を殺した宿敵に等しい存在だったからである。

 機動隊を大学に入れたことに、学生たちの怒りは頂点に達し、また、大学院生や若手教官からも、大学構内に機動隊を入れた大学当局に批判の声が上がった。「大学は学問の自由と独立を守るために、国家権力から独立していなければいけない」との考えから、機動隊の導入は学問の自由を奪うものと批判したのだった。

 この機動隊の導入に反発して、医学部の問題は東大文学部など各学部にも波及し、法・理・薬学部を除く7学部が無期限スト突入となった。

 6月28日、東大紛争を打開するため大河内一男総長と学生代表との会談が行われた。大河内総長は「機動隊導入はやむを得ない処置であった」と述べ、学生側との話し合いはつかないまま、大河内総長がドクターストップにより退場し会談は決裂した。大学の助手たちは「真の大学自治を確立するため、現在の自治理念、管理機構を根本から批判していく」と闘いの決意を示した。

 7月2日、無党派の学生や大学院生たちが安田講堂を再び占拠(第二次安田講堂占拠)。同月5日には東大全学共闘会議(東大全共闘、代表・山本義隆)が結成され、決起集会には3000人が結集した。全共闘は学生が全員参加する学生自治体とは異なり、闘う意思のある学生ならば誰でも参加できる組織だった。安田講堂は全共闘系学生の闘争拠点となり、集会では機動隊を導入させたことへの自己批判を要求する7項目を大学側に突きつけた。また7月23日には東大全共闘を支持する全学助手共闘会議が結成された。

 大河内総長は事態収拾のため「8・10告示」と題する文章をまとめ、夏休み中の全学生に郵送した。この「8・10告示」が逆に紛糾を大きくした。大学当局の非を認める言葉が文中になかったからである。「8・10告示」は学生だけでなく、大学教官からも非難された。

 8月28日、医学部の学生が医学部本館を封鎖、そのため研究や実験が停止。さらに9月27日には東大医学部赤レンガ館を研究者たちが自主封鎖。10月12日、それまで秩序を保っていた法学部が17時間の学生大会を経て無期限ストを決定。この法学部のストにより東大の全学部がストに突入することになった。

 東大紛争が長引くにつれ、さらなる闘争も激しさを増していった。それは学生運動の主導権をめぐっての東大全共闘と民青同の対立であった。学生運動は学生内部で東大全共闘(反代々木系)と民青同(代々木系)の2つに大きく分かれていた。

 民青同とは代々木にある日本共産党に基づく学生たちである。東大全共闘は日本共産党に反発し、過激な行動で革命を目指す新左翼グループであった。学生運動のグループは分裂を繰り返し、「革マル」「中核」「社学同(ブンド)」「反帝学評」などのセクトに分かれ、各セクトは、各セクトを示すヘルメットをかぶり対立を深めた。

 9月に入ると東大構内に立看板が乱立し、へルメットをかぶった学生の姿が目立つようになり、東大全共闘、民青同は激しく対立した。民青同系全学連は「東大全共闘を政府・自民党に泳がされたニセ左翼暴力集団」と呼び、各セクトは「東大を制するセクトは全国を制覇する」として、全国から応援部隊を招き入れた。

 大学当局は管理能力を失い、学生は代々木系と反代々木系が対立、過激派各派の衝突や内ゲバが繰り返された。この間、政府は「大学の運営に関する臨時措置法案」(大学運営措置法)を法制化した。この法律は、戦後の民主主義が獲得した大学の自治と学問の自由を大きく制限するものであった。この大学運営措置法の施行に伴い、中大、岡山大、広島大、早大、京大、日大などの大学封鎖は徐々に解除されていった。当時の全国大学の総数は379校であったが、そのうち紛争校は165校、さらに封鎖・占拠された大学は140校であった。

 11月1日、大河内総長が責任をとり辞任。東大総長が任期を全うせずに辞任したのは東大90年の歴史の中で初めてのことであったが、総長辞任を惜しむ声はどこにもなかった。そして11月4日、加藤一郎教授が総長代行として収拾に乗り出すことになる。加藤教授が総長代行に就任した日、林健太郎文学部長らが文学部学生との団交で、そのまま学生に拘束され1週間にわたり監禁状態に置かれた。

 11月になると全共闘側の行動はエスカレートし、民青同学生と激しく対立。11月12日、東大総合図書館前で全共闘と民青同学生が衝突、両派には他の大学の学生も支援に加わり、東大構内は騒然となった。11月14日には、駒場第三・第六本館封鎖をめぐって再び全共闘と民青同学生が衝突した。

 加藤総長代行は全学集会を開催し、紛争収拾のための予備折衝で、民青同学生と収集の合意を得た。しかし全共闘は「全学バリケード封鎖」の方針を打ち出し、安田講堂前で「全国総決起集会」を開くことになった。民青同は「全共闘の全学バリケード封鎖に反対」の立場をとり対決を強めた。

 全共闘は角材、青竹、鉄棒などを準備し、全国から2000人の学生が東大に集結。民青同もその日に1万人近い学生を動員して封鎖阻止の構えをみせた。この集会は日本の学生運動の「天王山」とされ、両派ともに主導権争いのため動員力を誇示し合った。

 11月22日、東大校内に新左翼系約2万人が集結、デモを行い、民青同系と小競り合いが始まった。深夜まで集会や激しいデモが繰り返され、6階建ての東大図書館は反代々木系学生に占拠された。しかし多数の一般学生が両派の間に割り込み、非暴力を掲げて無抵抗の座り込みを行ったため流血の事態にはならなかった。

 12月29日、坂田道太文相は長期化した東大紛争を解決し、授業を再開すべきと発言。翌年の入試を中止すると宣言、暗に東大を廃校とする発言をした。この動きを前に12月25日に法学部が、翌26日には経済学部がストを解除。紛争を解決させる勢力が勢いを増していった。

 一方、入試中止が決まると、全共闘は決戦気運が盛り上がった。全共闘の運動は大学改革だけでなく、東大の存在を根本的に否定し、東大解体の方向に進んでいった。大学解体をスローガンに大学当局との交渉を拒否、帝国主義大学という言葉を使い当局との対立を深めた。

 昭和44年1月、加藤総長代行は7学部による話し合いの場を設定、不参加を宣言した全共闘を批判した。1月9日、全共闘は3000人を集結させ、教育学部、経済学部を襲撃。この激しい衝突で100人が負傷、機動隊の導入が要請された。

 昭和44年1月10日、事実上の団体交渉といえる「7学部集会」が東京・青山の秩父宮ラグビー場で開かれ、紛争を集結させようとする秩序派学生と大学当局との集会が5000人の機動隊に守られて行われた。この集会には学生7500人、教職員1500人が参加し、加藤一郎総長代行ら大学側代表団と7学部学生代表団の間で、学生側からの7項目要求などが討論された。学生側の要求に、大学は一部修正を加えた10項目の確認書に署名し、両者はスト解除について合意した。

 残された問題は、全共闘が立てこもる安田講堂だけとなった。大学当局と学生代表団が確認書を取り交わした以上、紛争解決のための機動隊導入は必須であった。大学解体を叫ぶ全共闘は決戦の時を迎え、全国から支援部隊を安田講堂に集結させた。学生たちは機動隊の実力排除を間近とみて安田講堂に入り、石や鉄パイプを安田講堂に運び、要所を生コンで固めた。追い詰められた全共闘は安田講堂で決戦の時を待った。

 安田講堂は大正12年に、安田財閥の安田善次郎が巨費115万円を投じて寄付したもので、東大のシンボル的存在であった。鉄筋4階建ての西欧風の重厚な建物は大正期を代表する建築物のひとつで、安田講堂は東大の入学式、卒業式などに使われ、半世紀にわたり日本各界をリードする人材が巣立っていった。その安田講堂が、反権力を唱えるヘルメットの若者たちの要塞「安田とりで」となった。

 昭和44年1月18日早朝、東京大学は安田講堂の封鎖解除のため、警視庁に機動隊の出動を要請。この要請を受けた警視庁は、全学共闘会議派の学生を排除するため、同日朝7時に機動隊8500人を出動させた。東大紛争の決戦の時であった。

 警視庁は学生との対決を前に、多重無線指揮車、放水車など346台を東大前に集結させ、催涙ガス銃500丁、装薬包5914発、催涙ガス弾10528発(パウダー弾8732発、スモーク弾1796発)を用意した。気温は零度。晴れてはいたが、凍(い)てつくような寒い朝であった。マスコミのヘリコプターが上空を何機も飛び回った。

 警視総監・秦野章が動員した機動隊は安田講堂の決戦を前に、安田講堂を孤立させるため、バリケードの手薄な別の建物に立てこもる学生の排除を始めた。まず東大紛争の発火点となった医学部中央館に機動隊が入り、投石で抵抗する学生を次々と逮捕した。

 次に工学部、法学部、工学部列品館での攻防が始まった。学生たちは構内ベランダから警備車にガソリンをかけ、火のついた紙くずやボロきれを機動隊員の頭上に落とした。中核派が主力だった法学部研究室では170人近くが逮捕された。

 屋上の出口近くのマイクロフィルム室には、国際的に貴重な記録資料が多数あったがすべて破壊され、3階326号室の加藤総長代行の研究室も破壊され、他の教授の研究室は破壊とともに落書きだらけになっていた。

 工学部列品館での攻防が最も激しく、機動隊は法文1号館の屋上から水平撃ちでガス弾を撃ち込み、ヘリコプターからはガス弾が次々に投下された。学生は投石と火炎びんで抵抗したが、激しいガス催涙弾と火炎びんで列品館は炎と煙に包まれた。列品館は1時間の攻防で、学生は棒の先に白いハンカチをつけて陥落した。

 本格的な安田講堂攻撃は午後1時から開始された。機動隊は放水を続け、おびただしい催涙ガスが撃ち込まれた。ヘリコプターからの催涙液が籠城者の頭上からかけられたが、学生の抵抗はすざましかった。

 機動隊の頭上にはスチールの机やいす、コンクリートの塊、火炎びんが雨のように降り、正面玄関の攻防は機動隊にとって命がけの闘いとなった。火炎びんが投下され、それを放水で消し、火責め水責めの攻防となった。各テレビ局はこの攻防を中継し、テレビの視聴率は95%と驚異的な数値となった。

 機動隊は、安田講堂1階北側の用務員室の窓をたたき割って突破口としたが、ロッカーが三重に重なり、両脇をコンクリートで固めたバリケードは強固だった。2階から上へ行くには機動隊の生命の危険性が高かった。そのため1日目の攻防は、ここで終了した。

 2日目の攻防は、翌19日朝6時半に再開された。学生たちは火炎びんと投石で抵抗したが、機動隊は頑丈な木枠の上に、丸い屋根を付けた投石防止トンネルをつくり、機動隊が次々と安田講堂へ突入した。機動隊は少しずつバリケードをはがし、12時半に2階の講堂を制圧。講堂のピアノはバリケードに使われて無残にたたき壊されていた。ヘルメット姿の学生たちは大講堂の奥へ逃げ、抵抗せずに横に並んだ。

 午後3時には3階大講堂が制圧され、あとは時計台と屋上に立てこもる連中だけとなった。大時計の針が午後5時45分を指した時、機動隊は安田講堂の屋上に達し、安田講堂は完全に落城した。攻防が開始されてから34時間45分、安田講堂の時計台で振られていた赤旗がテレビの画面から消えた。

 この紛争で逮捕された学生は18日の列品館、法研などで256人、19日の安田講堂で377人。いずれも公務執行妨害、凶器準備集合、放火、不退去などの罪名であった。この安田講堂で逮捕された377人のうち東大生はわずか20人だけで、あとは各地から支援にかけつけた外人部隊だった。東大全共闘の多くは、「70年闘争への勢力温存」を理由に、攻防直前に安田講堂から脱出していた。このことから「東大生はいざとなると逃げ出す」と後々まで批判されることになる。両日の衝突で占拠学生のうち重傷者は76人であったが、その多くは至近距離からのガス弾の水平射撃によるものであった。

 安田講堂が陥落する直前に、次のような放送が流れた。「われわれの戦いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者のみなさん、われわれの戦いは、決して終わったのではなく、われわれに代わって戦う同志諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します」。これは東大医学部全共闘リーダーであった今井澄の声であった。

 今井澄は安田籠城組で逮捕された数少ない東大生であった。今井澄は後に長野県諏訪中央病院に勤務、勤務中に刑が確定したため刑務所に入ることになった。今井澄は大勢の病院職員、市長、市会議員に見送られながら刑務所に入った。

 今井澄は外科医であるが、獄中で内科学を学んだ。そして出所後、諏訪中央病院の院長になり農村老人医療と取り組んだ。平成4年に長野地方区から参院選に立候補して当選、民主党国会議員として活躍したが、平成14年に胃がんのため死去。今井澄ほど信念を通し、信念に殉じ、周囲から愛された医師はいないであろう。ご冥福をお祈りしたい。