東京女子医大山岳部

東京女子医大山岳部 昭和42年(1967年)

 昭和42年7月19日、東京女子医大山岳部の今井通子(25)と若山美子(26)の2人がヨーロッパ・アルプス3大北壁の1つであるマッターホルン北壁の登頂に成功した。マッターホルンの標高は4478メートルで、4000メートル級の山々が連なるスイスアルプスのなかでも、住民からは「魔の山」として恐れられていた。マッターホルンの山頂は夏でも白銀の雪を冠し、古くから世界中のアルピニストたちを魅了していた。

 マッターホルンの北壁は雪と氷に覆われ、岩は崩れやすく、男性でも恐れをなす難コースである。今井通子らは1晩のビバーク(野営)の後、夜の8時に頂上に立った。吸い込まれそうな巨大な氷壁に苦戦し、女性だけのパーティーで北壁の登頂に成功したのである。マッターホルンの北壁は女人禁制といわれていたほどの難所であったが、今井たちは世界で初めて女性だけで登頂に成功した。翌20日の朝に下山を始め、昼過ぎにベースキャンプに着いたが、世界のクライマーはこの快挙に驚き、女性だけで北壁を登るとは信じられないと絶賛した。

 その2年後の昭和44年、今井通子はアルプス・アイガー北壁(3970メートル)の登頂に成功。アイガー北壁は「赤い絶壁・魔の絶壁」と呼ばれ、赤黒く湿った岩肌が直角を超え、あらゆる者を拒絶していた。今井通子は加藤滝男を中心とする男性パーティーの一員として登頂に成功した。

 昭和46年、今井通子は婚約者である高橋和之とアルプス・グランドジョラス北壁(4208メートル)に挑んだ。雪や落石と戦い、登頂に成功すると、仲間たちは頂上に雪洞を掘り、シャンペンと赤飯で2人の結婚を祝った。

 それまで3大北壁のすべてを征服したのは全世界でも数人しかいなかった。今井通子は女性として世界で初めて3大北壁を征服し、世界の登山史に大きな足跡を残した。その後、チョモランマ(中国側のエベレスト)、アフリカの最高峰キリマンジャロにも登頂し、山頂からのパラグライダー飛行にも成功している。

 今井通子はスイスでは有名なクライマーで、山に関心のあるスイス人なら、だれでも知っている日本人女性である。それまでの岩登りは男性だけで女性はほとんどいなかった。今井通子は男性にできることは女性にもできることを示し、女性の地位向上に貢献した。

 今井通子の3大北壁制覇から4年後の昭和50年、日本女子登山隊が女性として初めてエベレスト登頂に成功した。登頂者は田部井淳子だった。当時、登山は大変なブームだったが、男のスポーツとされていた。娘を持つ親たちは、「お願いだから、山と全学連だけには行かないでくれ」と言っていたほどである。そのため山男という言葉はあるが、山女という言葉はない。

 今井通子は昭和17年、東京・世田谷に生まれ、中学生のころから父親に連れられて山に親しみ、東京女子医科大に入学と同時に山岳部に入った。山岳部時代には、女性パーティーとして初めて谷川岳烏帽子奥壁の登攀(とうはん)に成功し、女性登山家として名を知られるようになった。

 今井通子は、北壁登頂によって「女だてらに登山をするという世間の偏見を称賛」に変えた。彼女は後に、「私の北壁」「私の北壁 続」(ともに朝日文庫)、「山は私の学校だった」(山と渓谷社)、「男は仕事、女は冒険」(主婦と生活社)を出版、自分がいかにして山に親しみ、いかにしてトレーニングを積み3大北壁を制覇したのか、さらに遭難を心配する家族への葛藤(かっとう)などを書いた。今井通子は東京女子医大を卒業後、泌尿器科医として勤務、環境保護問題など幅広く活躍している。