昭和40年代

昭和40年代

 日本の産業が農業から工業へ変わり、田舎から都市に人口が移動し、景気の拡大と雇用の充実が庶民の収入を増やし、生活は豊かになった。昭和39年の東京オリンピックまでに国内インフラはおよそ整備され、同年には東海道新幹線が開通し、東海道新幹線は日本の技術力の高さを世界に示した。昭和44年には東名高速道路が全線開通し、自家用車が日常生活の一部になり、生活は消費へと向かった。しかし一方では、重化学工業の拡大が公害を生み、生活排水が河川の悪臭を生み、生活を便利にするはずの自動車が光化学スモッグをもたらした。

 昭和40年代は急激な経済成長の中で、その歪みをもたらした時代でもあった。重化学工業を優先させる政策と生活の利便性が、公害という健康被害をもたらし、国民は企業の利潤追及に拍手と戸惑いを見せながら、地方自治体の選挙で革新首長を次々に登場させた。昭和42年から54年まで美濃部達吉が東京都知事を務め、京都府の蜷川虎三知事は7期28年にわたり、その他に北海道、大阪、神奈川などで革新自治体を登場させた。

 国政は佐藤栄作首相の7年8か月にわたる長期保守政権が終わると、昭和47年には「日本列島改造論」を唱えた田中角栄が首相となり、国土開発はさらに進んだ。「日本列島改造論」は、首都圏などの大都市と地方の格差を埋めるために、全国に高速道路網を巡らせ、地方に公共事業を持ち込み、公共事業や公共施設の建築は地方経済を中短期的に潤わせた。しかし都市部への人口移動と地方の過疎化は止まらず、都市部と地方の格差は進んでいった。農業は食の変化と国際化により次第にゆがみを生じ、米の完全自給を達成したのに、食料自給率は低下し、農業の機械化とともに農民100万人が出稼ぎにでるようになった。農村の周囲の道路は整備されたが、農業人口の減少と高齢化が進んだ。

 昭和40年に、日本は大韓民国と日韓基本条約を締結され、昭和47年には田中角栄首相が中国との国交を回復させた。しかし同時に中華民国(台湾)との国交を断絶し、北朝鮮とは国交がないままである。

 団塊の世代の血気盛んな青年は、60年安保闘争の敗北を眼前に記憶しており、学園闘争やベトナム戦争反対運動をより過激にした。一部の学生は既成政党の打倒、革命を叫び、暴力的活動へと走った。東大紛争、連合赤軍、連続リンチ殺人、内ゲバ、連続爆破事件へと彼らは暴走したが、国民を敵視する暴力革命は、国民に不安と嫌悪をもたらすことになった。

 国民は社会不安、環境破壊などに戸惑いを覚えていたが、それを吹き飛ばすように、昭和45年に「日本国際万博」が開催された。入場者は6421万人で、人類の進歩と調和をテーマにしたパビリオンには家族連れが列をつくり、万博は日本の平和と繁栄を国民の心に植え付けた。政治よりも経済が生活の水準を高めることを実感させ、国民の多くが中流意識を持つようになった。

 昭和47年にグアム島から横井庄一さんが、昭和49年にはルバング島から小野田寛郎少佐が帰国し、2人はかつての日本人を思い起こさせた。しかし学生運動で挫折を味わった若者はジリ貧になり、若者は内向的フォークの世界に入り、フーテン族、アンノン族となり、破廉恥な若者文化でさえ昭和元禄という言葉に飲み込まれた。大人の財布は緩み、デスカバージャパンの宣伝とともに、個人的な趣味と享楽へと移行していった。経済の繁栄が自分たちの繁栄のように受け止めていた。

 一方、正義と栄光のアメリカは、ベトナム戦争の泥沼から抜け出せずにいた。日本はアメリカを支持しながら、昭和43年に国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き、世界第二位の経済大国となった。日本人の勤勉さ、手先の器用さ、技術の高さなどが経済大国にしたのであるが、日本国憲法により軍隊を持てず、安保条約の傘の下で経済に集中できた要因が大きい。

 昭和46年、アメリカ経済の低迷と日本経済の繁栄を象徴するように、1ドル360円の固定相場が変動相場へ変わりドルが切り下げられた。昭和48年10 月には第四次中東戦争が勃発し、原油価格は3倍になり、このドルショックとオイルショックにより日本経済は低下し、狂乱物価が生活を襲った。昭和49 年、経済は戦後初めてマイナス成長となったが、それは一時的な休息にすぎなかった。

 当時、塾もなければ、国立大学の授業料も安かった。勉学に励み、成績さえよければ希望する大学に進めた。大学に入れば就職は保障され、中卒でも「金の卵」と呼ばれ、田中角栄のような才能と頑張りがあれば将来は明るかった。日本は若く、終身雇用制、年功序列を保持する活力があった。和をもって貴しの日本社会の中で、立身出世の夢を持ち得た活気ある時代だった。若者はベンチャーズ、ビートルズに夢中になり、そしてタイガーズなどのグループ・サンズが日本中に鳴り響いていた。主婦はスーパーで買い物をして、亭主は飲み屋で憂さを晴らし、老後の問題は存在せず、不安なき日々であった。