新潟水俣病(第二水俣病)

新潟水俣病(第二水俣病) 昭和40年(1965年)

 栃木県、福島県を源水として日本海に流れる阿賀野川は新潟の重要な交易路として栄えていた。阿賀野川流域に住む人々は半農半漁民が多く、豊かな水源は新潟平野の灌漑用水として、住民たちの食卓にはサケ、マス、ヤツメなどの川魚が並び、川魚は住民たちの重要なタンパク源となっていた。この日本有数の阿賀野川は、アイヌ語で「清い川」を意味していた。この「清い川」がメチル水銀(有機水銀)に汚染されたのが新潟水俣病である。

 熊本県・水俣市の水俣病が「チッソ水俣工場から排出されたメチル水銀が原因」と判明してから6年後のことである。昭和39年から40年にかけて、阿賀野川流域の住民の間で、手足がしびれ、口が利けなくなるなど、水俣病に似た患者が発生していることが明らかになった。

 昭和39年11月12日、原因不明の神経症状を示す31歳の漁民が新潟大学医学部付属病院に入院、新潟市下山地区に住むこの患者が新潟水俣病発見のきっかけとなった。この男性患者が入院してから、同じ症状を持つ患者が連続して新潟大学病院に入院してきた。

 その症状は視野狭窄、歩行障害、言語障害などの中枢神経症状が主であった。昭和40年1月、ちょうど東京大学脳研究所から新潟大学医学部神経内科に赴任してきた椿忠雄教授(後にスモンのキノホルム原因説を確定させたことでも有名)は、これらの患者を診察してすぐに水俣病を疑った。

 水俣病の原因であるメチル水銀は消化管から100%吸収され、脳に移行して神経症状を引き起こすことが分かっていた。患者はいずれも阿賀野川流域に住み、川魚を多く食べていた。椿教授は患者の毛髪に含まれる水銀を測定、通常の50倍にあたる390ppmの有機水銀を検出したのだった。

 昭和40年5月31日、新潟大学医学部脳神経外科・植木幸明教授、神経内科・椿教授は「阿賀野川流域に水俣病に似たメチル水銀による中毒患者が発生している」と新潟県衛生部に報告。6月12日に記者会見で、「この疾患は阿賀野川の川魚を多く摂取したことが原因と推定される」と正式に発表した。脳神経を冒され、視力障害、聴力障害、全身のしびれなどを訴える患者はそれまでに7人入院し、2人がすでに死亡していた。

 メチル水銀中毒の原因については、住民の多くは容易に想像ができた。阿賀野川の上流60キロの福島県との県境の鹿瀬町に昭和電工鹿瀬工場があり、チッソ水俣工場と同じアセトアルデヒドを生産していたからである。

 当時、日本のアセトアルデヒドの生産量はチッソが第1位、昭和電工が第2位であった。昭和電工は昭和11年からアセトアルデヒドを生産しており、メチル水銀を含んだ排液が阿賀野川を汚染させたとしても不思議ではなかった。昭和電工鹿瀬工場は山奥にあったが、従業員約2000人の日本有数の化学工場であった。

 熊本県の水俣病と同じように、昭和39年8月頃から阿賀野川流域のイヌやネコが狂死し、大量の川魚が浮き上がることが観察されていた。だが昭和電工鹿瀬工場は、熊本のチッソ水俣工場以上に強固な反論を繰り返し、自社犯人説を否定した。昭和電工側は熊本の水俣病が問題になってからも何ら対策をとらず、それでいて工場排水中のメチル水銀が原因でないと頑として認めなかった。

 同工場はアセトアルデヒドの製造過程で水銀を使用し、排水を阿賀野川に放出していた。阿賀野川の魚介類から有機水銀が検出されたが、工場は非を認めず、昭和39年6月16日に起きた新潟地震によって有機水銀農薬が阿賀野川に流出したことが原因と主張した。

 新潟地震は死者25人、家屋全壊994戸に達する大地震であったが、有機水銀を流出させた農薬工場はどこにも存在しなかった。また新潟水俣病患者が工場周辺よりも、阿賀野川下流に多いことも否定の根拠となった。

 調査が進むにつれ、患者の発生地区では「食べた川魚の量と毛髪中のメチル水銀の量が明らかに比例すること」がわかった。婦人の長い髪に含まれる有機水銀の量を分析した結果、新潟地震以前の毛髪部分からも正常値を超える水銀が検出された。このことから川魚の汚染は昭和電工鹿瀬工場の排液中のメチル水銀とほぼ決定された。患者が阿賀野川下流地域に多いのは、阿賀野川に生息する生物の食物連鎖で水銀が濃縮され、下流の魚介類の水銀濃度が高くなっていたせいであった。

 先に発生した熊本県の水俣病は、水俣市がチッソの企業城下町であったこと、患者や漁民が周囲から孤立したことなどから原因解明に遅れを取った。しかし新潟水俣病は水俣病の前例があったため、また環境汚染への住民の認識が高まっていたため、周辺住民だけでなく、新潟県知事、民間団体、行政、政府が一体となって解決に努力したことから原因究明は速かった。熊本大学水俣研究班やチッソを退職した水俣工場付属病院の細川一・元院長らが新潟水俣病の究明のために協力を惜しまなかった。

 ここで重要なことは、同じ水俣病である新潟と熊本の患者認定に大きな差がみられたことである。熊本県の水俣病は重症の典型例だけを水俣病と認定したが、新潟水俣病はしびれや運動障害などの軽症例も水俣病と認定していた。

 このことは椿教授の功績が大きかった。熊本水俣病の前例を踏まえ、県衛生部と綿密に住民調査を行い、原因が有機水銀と分かると、すぐに汚染地区の2万9000人全員にアンケート調査を実施し、疑わしい患者をピックアップして毛髪の水銀を調べる方法を取った。そのため軽症の患者を含む全患者をリストアップすることができたのである。

 また熊本水俣病の「胎児水俣病の悲劇」を繰り返さないように、頭髪の水銀濃度の高い婦人には避妊の指導が行われた。新潟水俣病の患者は阿賀野川流域の住民がほとんどで認定患者は690人、非認定ではあるが医療救済対象者は834人となった。死者は50人以上とされている。

 被害者対策は迅速に行われたが、住民にとって水俣病の認定は周囲との偏見との戦いでもあった。認定には大学病院で検査を受けて自己申請しなければならない。補償金欲しさのニセ水俣病との偏見もあった。

 水俣病と認定されると、就職はできず、会社はクビになり、結婚ができない、とのうわさが流れ、症状があっても申請しない患者も多くいた。患者は自暴自棄となり、家庭は崩壊し、阿賀野川の魚は売れずに漁民は深刻な打撃を受けた。

 昭和41年3月に、厚生省特別研究班は、「昭和電工鹿瀬工場の排水口から採取した水ゴケからメチル水銀を検出した」と発表、新潟水俣病の原因を昭和電工鹿瀬工場の排水によるものと断定した。43年9月に政府は新潟水俣病を公害病に認定したが、政府が公害と認定したにもかかわらず、昭和電工はその関係を否定したまま裁判で争われることになった。

 昭和42年6月12日、新潟水俣病患者13人が昭和電工に慰謝料4450万円をもとめ新潟地裁に提訴し、さらに患者77人が慰謝料5億2267万円の損害賠償を求めた(第1次訴訟)。この第1次新潟水俣病訴訟は患者側の全面勝訴となり、新潟地裁は昭和電工に2億7779万円の支払いを命じた。昭和電工は責任を追及する世論が沸騰したため控訴を断念した。

 この裁判は、わが国の4大公害裁判(熊本水俣病、四日市ぜんそく、富山のイタイイタイ病)の中で最初に結審した判決で、それ以降の公害裁判に大きな影響を与えた。公害裁判では、高度経済成長の中で環境よりも生産性を優先させた企業の姿勢が争点となった。

 水俣病と認められなかった水俣病未認定患者140人が、国の行政責任を求め新潟地裁に提訴(第2次水俣病訴訟第2〜8陣)。この裁判は長期化し、平成7年、村山連立内閣は水俣病患者の救済が遅れたことについての政治責任を認め、患者と和解をめざすことになった。村山首相の謝罪談話を受け、東京高裁(第2次第1陣)と新潟地裁(第2次第2〜8陣)では国との和解協議が進められ、国は患者1人当たり260万円の一時金と団体加算金4億4000万円を支払うことになった。この結果を受け患者は訴訟を取り下げたが、この政治決着までに13年半の月日を要し、この間、原告43人が亡くなっている。

 国は和解に応じたが、賠償金の全額は昭和電工が支払うことになった。国が政治責任を認めたのに、昭和電工が損害賠償の肩代わりをしたのは、国が昭和電工に公害防止の設備投資などの名目で、租税優遇措置や低利融資などの実質的資金援助を行い、昭和電工には実質的な損害を生じさせなかったからである。

 新潟水俣病は、和解により決着したが、高度経済成長のなかで熊本水俣病の教訓を生かさなかった企業の悲劇といえる。阿賀野川の魚類の有機水銀濃度は次第に自然界レベルに低下し、阿賀野川流域の魚介類の食用禁止は昭和53年に解除された。