和田寿郎教授心臓移植事件

和田寿郎教授心臓移植事件 昭和43年(1968年)

 昭和43年8月8日、北海道・札幌医大付属病院で日本初の心臓移植手術が行われたことを各新聞の夕刊が大々的に報道した。手術を行ったのは胸部外科教授・和田寿郎(46)を中心とした20人の医師団であった。日本中の視線が札幌医大に集まり、新聞、テレビ、ラジオ、日本の全メディアは総力を挙げて心臓移植の取材を行った。

 マスコミは「札幌医大の快挙、日本初の心臓移植」と絶賛し、新たな医学の到来に日本中が沸き上がった。多くの人々は移植を受けた北海道恵庭町の宮崎信夫君(18)の回復を願い、報道される宮崎君の容体に声援を送った。しかし宮崎君が移植手術から83日目に亡くなると、その日を境にして和田教授の国民的称賛は冷め、それまでくすぶっていた疑惑が表面化し、非難へと変わっていった。

 心臓移植を受けた宮崎君は、同年4月から心不全で同病院に入院していた。和田教授の説明では、宮崎君の病名は僧帽弁閉鎖不全症、三尖弁閉鎖不全症、大動脈弁狭窄症の3つが重なった重症の心臓弁膜症で、そのため心臓が異常に肥大していた。

 宮崎君は小学5年生の時、リウマチ熱を患い、心臓弁膜症のため小学生の時から学校の体操は見学だけで、この5年間は寝たきりの状態が多かった。和田教授は宮崎君が生きるには心臓移植しかないと判断、そのことを本人と家族に説得した。

 一方、心臓を提供したのは札幌に住む駒沢大学4年生の山口義政君(21)であった。山口君は移植前日の8月7日正午すぎ、小樽市の蘭島海水浴場でおぼれ、海底に沈んでいるのを発見された。引き上げられた山口君は救急車のなかで奇跡的に息を吹き返し、意識不明のまま小樽市内の野口病院に収容された。

 山口君の治療に当たった上野冬生医師は自発呼吸と瞳孔反射認め、命に別状はないと判断して帰宅。ところが容体が急変したため、野口暁院長は高圧酸素治療ができる札幌医大へと転院させた。

 同日午後8時、山口君は救急車で札幌医大に運び込まれ、午後10時10分、瞳孔が散大し、脳波が停止したため脳死と認定された。医師団は山口君の両親に心臓の提供を申し出て承諾を得た。そして翌8日午前2時5分、和田教授の執刀で心臓移植手術が開始され、宮崎君の肥大した心臓を取り出すのに13分、山口君の新しい心臓を宮崎君に移植するのに45分かかり、手術は午前5時に終了した。

 南アフリカ共和国のC・バーナード博士が世界で初めて心臓移植の手術を行ってから9カ月目の快挙であった。バーナード博士の患者は18日目に死亡しているが、以後生存例が増え、和田教授による心臓移植は世界で30番目であった。

 8日午後2時20分、札幌医大付属病院で緊急記者会見が行われ、日本初の心臓移植が行われたことが発表された。テレビ、新聞のほとんどが心臓移植一色となり報道は過熱していった。心臓移植に関してはまだ社会的合意はなされておらず、脳死についてもまだあいまいな時代であった。

 和田教授は「2人の死より1人の生を」「移植の是非よりも、目前の患者を救うこと」を主張した。マスコミは当時46歳の和田教授を医学界の風雲児ともてはやし、新聞は「日本医学の黎明(れいめい)を告げた一瞬」「涙ぐむ両親、提供者にただ感謝」などの見出しで報道した。

 手術を受けた宮崎君に多くの国民が声援を送り、拒絶反応を乗り越えて早く回復してほしいと多くの人々が祈った。宮崎君は順調に回復し、病院の屋上を車いすで散歩する様子や笑顔で手を振る姿が日本中に放映された。ところが手術時の大量輸血の影響により体力の消耗をきたし、宮崎君の症状は日を追うごとに悪化してゆき、手術から83日目の10月29日に宮崎君は死亡した。

 和田教授は宮崎君の死因について、気管支炎によって痰がのどに詰まり、急性呼吸不全を起こしたためと説明した。和田教授は心臓移植に伴う拒否反応の関与を否定、心臓移植そのものは成功したが、偶発した事故により運悪く死亡したと暗にほのめかした。

 宮崎君が死亡すると、日本初の心臓移植は急速にほころびを見せ、近代医学の進歩を絶賛していた国民的な雰囲気が徐々に疑惑へと変わっていった。宮崎君が死亡するまでは想像もしていなかった疑惑が一気に浮かび上がった。

 その疑惑は「宮崎君は本当に心臓移植が必要なほど重症だったのか」、「心臓を提供した山口君は生きていたのではないか」の2点だった。それは和田教授のそれまでの発言をすべて否定する疑惑だった。もし山口君が生きたまま心臓を取られ、移植の必要ない宮崎君に移植されたのなら、これほど恐ろしいことはない。事態は礼賛から疑惑、疑惑から糾弾へと展開していった。

 最初に疑問を持ったのは、宮崎信夫君の主治医の札幌医大内科・宮原光夫教授であった。宮原教授は心臓移植が行われたとき、移植を受けたのが自分の患者とは知らなかった。宮崎君は僧帽弁だけが悪く、弁置換術のために内科から胸部外科に転科しただけで、トイレにも歩いて行けたし、心臓移植を受けるほどの重症ではなかった。和田教授は移植が必要なほどの心臓弁膜症と述べたが、宮原教授は「そもそも心臓手術が必要な状態ではなかった」として、内科専門誌(内科、昭和44年5月号)に宮崎君の術前状態を掲載し、和田教授の診断を正面から否定した。

 宮崎君の遺体を解剖した札幌医大病理学の藤本輝夫教授も、心臓に関して宮原教授と同様の見解を発表した。その内容は、「剖検所見からみた心臓移植」の題名で内科論文誌・最新医学3月号に書かれている。解剖の結果、腹部には緑膿菌感染による膿瘍が大量に貯留していて、この膿瘍は免疫抑制剤の副作用による感染によるものとした。宮崎君の心臓は1080gと通常人の4倍に膨れあがり、心膜に癒着を認め、これを移植の拒絶反応の所見とした。藤本教授は免役学的な基礎研究もしないで、いきなり宮崎君に心臓移植を実施したことは「結果的に人体実験だった」と和田教授を批判した。

 このように札幌医大内部から和田教授を非難する声が上がったため、札幌医大学長は「心臓移植の検討会を持ちたい」と定例教授会で提案した。移植手術に関する臨床データは学内ですら公表されていなかった。これを検討しようという学長の提案であったが、反対意見が続出した。「やれば内容がマスコミに漏れ、十大ニュースになるはずの心臓移植の名声が失われてしまい、大学に汚点を残す」などの意見が大勢を占めた。居並ぶ教授陣のほとんどが和田移植への疑惑を持ちながら、その大勢は疑惑隠しに傾いていた。

 宮崎君は本当に移植手術が必要だったのか。この疑惑が渦巻く中、宮崎信夫君の切除された心臓が3ヶ月間行方不明になる事件が起きた。病理学の藤本教授は「宮崎君の心臓が行方不明となり、3か月後に見つかったが、何者かによって心臓の3つの弁が根元からくり抜かれていた。ばらばらになった3つの弁と心臓の復元を試みたが、明らかに大動脈弁だけは宮崎君の心臓と切り口が合わなかった」と述べた。

 宮崎君の心臓は移植を必要とするほど致命的な弁膜症だったのか。それを検証するための大動脈弁が他人の大動脈弁とすり替えられた可能性があった。この「弁のすり替え疑惑」は、後に札幌地検の依頼で東大医学部病理学・太田郁夫教授が鑑定しているが、その結果、宮崎君の血液型はAB型だが、大動脈弁はA型であった。このあまりに恐ろしい結果に、太田教授は鑑定書では断定を避ける表現に終始している。

 一方、海水浴中におぼれて心臓を提供した山口義政君は本当に死んでいたのだろうか。山口君は小樽の野口病院から札幌医大付属病院に転院となったが、野口病院の上野冬生医師は「山口君が入院したときには自発呼吸があり、対光反射、心音もはっきりしていた」と証言している。

 山口君が札幌医大付属病院に転院したのは上野医師が帰宅したあと、午後7時に野口病院の野口暁院長の判断で札幌医大への搬送がなされた。野口院長は以前から和田教授と親しく、かつて結核病院で和田教授と一緒に結核の手術を100例以上行っていた。その関係で、院長は以前から心臓提供者を頼まれていた、つまり和田教授が心臓提供者の網を張っていたとうわさされた。

 札幌医大付属病院における山口君の容体についての証言は大きく分かれている。和田教授は限りなく脳死に近い状態だったとしているが、救急隊員や山口君の父親、手術に駆けつけた麻酔科医・内藤裕史(後の筑波大学教授)は、体動や自発呼吸があり、血圧は落ち着いていたと証言している。

 果たして山口君を生かす努力がなされたのか。蘇生は麻酔科の担当であるが、麻酔科・内藤医師は病室から追い出され、脳死の判定は移植グループの医師によって行われた。しかし脳死を示す山口君の脳波の記録はなかった。脳死の判定はブラウン管に映った波形を見て判断したと説明されたが、それでは第三者を納得させることはできない。さらに心電図の記録も重要なところが抜けていた。胸部外科教室員だけで行われた脳死の判定は密室の医療の疑惑があった。

 また宮崎君の両親から心臓移植の同意を得る段階、正確には山口君が札幌医大付属病院に搬送される前の時点で、宮崎君用の輸血が大量に注文されていたことが日赤の記録から分かっている。さらに山口君の両親が移植に同意したのは、山口君の胸部が切開された後であることも明らかになった。

 宮崎君の死から1カ月後の12月3日、大阪の東洋哲学医学漢方研究会(増田公孝代表)の6人が、大阪地検に和田教授を「未必の故意による殺人罪」と「業務上過失致死罪」で告発した。刑事告発は大阪地検から札幌地検へ送られ、札幌地検が捜査をすることになった。この告発によって、心臓移植の疑惑についての報道が過熱していった。

 札幌地検は、刑法上の殺人罪は構成しないとしながら、業務上過失致死が問えるかどうかの検討に入った。札幌地検は和田教授から事情を聴取、捜査に乗り出すことになった。参考人として154人が聴取され、山口君の心臓やカルテなど物的証拠は553点に達した。担当したのは札幌地検刑事部長・秋山真三だった。捜査は長期化し、当初2カ月とみられていた事情聴取に7カ月を費やした。誤算だったのは、検事が証拠隠滅の可能性はないとして強制捜査を行わなかったことである。

 この心臓移植疑惑の重要な点は、脳波と心電図の記録、さらに誰が宮崎君の心臓を盗み、弁をくり抜いたかであった。この点について、和田教授は手術スタッフの門脇医師が行ったと証言している。門脇医師は責任を負わされることになるが、門脇医師は移植手術から5カ月後に胃がんのため死去、死人に口なしであった。

 札幌地検の捜査上、最大のネックになったのは、山口君の遺体が解剖されないまま、札幌中央署の検視だけで火葬されていたことだった。司法解剖をしていれば、心臓を摘出した時点で生きていたかどうかを客観的に示すことができたのである。

 昭和45年1月、札幌地検は医学鑑定に踏み切り、東京女子医大・榊原仟教授、東大医学部・太田邦夫教授、京大医学部・時実利彦教授、この日本を代表する心臓の権威者3人に鑑定を依頼したが、いずれの鑑定書も曖昧な内容で決定的な結論には至らずにいた。

 鑑定では医学界特有のかばい合いが行われた。「真実が明らかになれば、日本では心臓移植ができなくなる」、このことを権威者たちは心配したのだろうが、結果的に日本の心臓移植は33年間にわたり、道を閉ざされることになる。真実は闇の中であるが、密室医療の恐怖が医療への国民的不信を招くことになった。

 同年7月27日、「和田心臓移植を告発する会」が発足。13人のメンバーには2人の元厚生大臣(坊秀男、吉井喜実)、3人の評論家(石垣純二、松田道夫、川上武)のほか、若月俊一・佐久病院長、中川米造・阪大助教授らそうそうたる名前が連ねられていた。この会は、「患者の基本的人権の尊重に欠け、医師の倫理に反する」として、法務委員会、医道審議会、人権擁護委員会に和田教授の事件を調査するように働きかけた。

 ところが同年9月、札幌地検は札幌高検、最高検と協議し、「和田教授を殺人と断定する決め手がない」として、証拠不十分で不起訴処分としたのである。不起訴処分から1年後の昭和46年10月、札幌検察審査会は再捜査を要求。札幌地検は再捜査を行うが、翌年8月、新たな証拠がないとして再び嫌疑不十分として不起訴とした。「嫌疑不十分とは、犯罪を認める証拠がない」ことで、シロを意味する「嫌疑なし」とは違い、灰色の意味である。いずれにしても和田教授への刑事責任は事実上なしと決着した。

 和田寿郎教授は、大正11年に札幌市に生まれ、北海道大学医学部を卒業、昭和25年に米国ミネソタ大学に留学、心臓弁膜症の手術など2300例を行った。心臓外科の進歩に伴い、心臓の部分的な修復を目指す手術に限界を感じ、「重症な心臓疾患には心臓移植を行う」との考えを持っていた。

 心臓移植から20年後の昭和63年に、和田教授はこの事件について、「第三者の告発を受けたが、宮崎君や提供者の家族から何の批判を受けなかった、さらに手術スタッフの中で誰も傷つく者が出なかったことは幸せであった」と述べている。

 和田教授による心臓移植事件は日本の医学界を委縮させただけであった。日本医師会長・武見太郎は「臓器移植は医療としては邪道」と意見を述べ、臓器移植だけが医学の進歩の中で取り残されてしまった。

 この事件以降、心臓移植は拒絶反応を抑える画期的薬物が開発され、世界では年間3000例以上の心臓移植がなされ、心臓移植はごく普通の手術になっている。医療現場の密室性、医療専門家のかばい合い、医師への警察や検察の低姿勢がこの事件の根底にあった。

 日本では和田教授の事件から30年後、平成9年10月に臓器移植法が施行され、脳死による臓器移植にやっと道が開かれた。和田教授は心臓移植のパイオニアを自負してのことだろうが、結果的に心臓移植に33年間の空洞を作ってしまった。和田教授の疑惑により、和田教授に続く病院、医師はいなくなり、「移植手術」に関して日本は世界から40年の遅れをとった。この事件の代償はあまりに大きかった。事件当時、札幌医科大学整形外科の講師だった作家・渡辺淳一は「小説心臓移植(後に白い宴と改題)」を発表。吉村昭もこの事件を題材に小説「神々の沈黙」を書いている。