千葉大腸チフス菌事件

千葉大腸チフス菌事件 昭和41年(1966年)

 昭和41年3月1日、静岡県三島市にある社会保険三島病院の職員や患者の間で、腸チフスが流行していることが地元の静岡新聞によって報道された。社会保険三島病院では腸チフスで副院長が死亡し、腸チフスと診断された患者数は2カ月で25人に達していた。

 同日、厚生省は三島病院の閉鎖を命じ、病院内を消毒した。同月9日、朝日新聞と読売新聞がこの事件を全国版で報道すると、すぐに世間の注目を浴びるようになった。翌10日には、社会保険病院の管轄である厚生省が、腸チフスの集団発生に関しての管理責任を国会で追及されることになった。

 この腸チフスの集団発生は社会保険三島病院だけではなかった。昭和39年から41年にかけ、千葉市にある千葉大学医学部第一内科、川崎製鉄千葉工場、静岡県御殿場市付近でも腸チフスが集団発生し、患者数は東京都を挟んで100人以上に達した。この腸チフス事件が報道されると、謎が謎を生み、ミステリアスな事件として国民の関心を呼んだ。マスコミが先頭に立ち、国民的な謎解き競争が始まった。

 「腸チフス 三島から千葉を往復」。このような見出しでマスコミは連日のように腸チフス事件を取り上げ、報道は加熱していった。この腸チフス事件は、通常の腸チフスの集団感染とは異なる怪奇性を帯びていた。

 腸チフスが発生すれば、その感染源や伝染経路を解明し、感染の広がりを防止するのが通常である。ところが三島病院の場合は、感染経路に不可解な点が多くみられた。腸チフス患者は病院関係者に多かったが、感染者と感染者の間に接点が見られなかったのである。三島病院に通院している患者にも腸チフスは多発したが、その感染経路が分からなかった。

 三島病院では内科を中心に職員25人が腸チフスで入院。腸チフスは法定伝染病で、病院は保健所に届ける義務があったが、三島病院は隠蔽を図り保健所に届けていなかった。さらに三島病院では腸チフスだけでなく、赤痢患者が数人いることが分かった。

 腸チフスは、その病名から赤痢やコレラのように下痢を起こすイメージがある。しかし腸チフスの胃腸症状は少なく、約1週間の潜伏期間の後に、全身倦怠感、食欲不振、頭痛などが出て、次に発熱が出現する。発熱から1週間後に皮膚にバラ色の小さな斑点ができ、このバラ色斑点(バラ疹)によって腸チフスの診断が下されることが多い。

 厚生省公衆衛生局防疫課がこの事件の調査に乗りだし、腸チフスが発症した4カ所すべてに関係している人物が浮かび上がった。それは千葉大第一内科に所属する医師で、この医師が故意に腸チフス菌をばらまいたとすれば、千葉と静岡にまたがる集団発生の謎がきれいに説明できた。しかしこの医師が関与していたとしても、医師が単なる保菌者だった場合、着衣からの感染だった場合もありうるが、それらはすべて切り捨てられた。疑惑の医師は自宅待機を命じられ、保菌者の名目で千葉市立病院に強制隔離となった。

 厚生省は医師と面談、同時に千葉県警も捜査に乗り出した。昭和41年4月2日、朝日新聞が「殺人の疑いで鈴木逮捕へ」と実名顔写真入りで報道。4月7日、千葉県警は千葉大学付属病院第一内科無給医局員の鈴木充(35)を、腸チフス菌混入による傷害罪容疑で逮捕した。容疑は13回にわたって腸チフス菌や赤痢菌を64人に感染させたことであった。

 三島や千葉の腸チフス発生現場に鈴木充は関与しており、静岡県御殿場市の腸チフス集団発生では、鈴木充の実家の本家で6人、実家の隣家で5人、親戚の家で8人の患者が出ていた。神奈川県小田原市でも1人発症しているが、それは鈴木充の弟の家であった。

 医師が伝染病の細菌をばらまく、このような犯罪史上類のない事件に国民は大きな衝撃を受けた。マスコミは鈴木医師の行くところに腸チフスありと報道し、鈴木充の犯行説を国民に印象づけた。

 逮捕された医師の鈴木充は千葉県警の取り調べに犯行を否認していたが、逮捕から7日目に、「自分が菌をばらまいた」と自白。試験管で腸チフス菌を増やし、カステラにかけ、注射器でバナナに注入し、ジュースなどの飲食物に混入させ、同僚や患者たちにばらまいたと述べたのである。鈴木充は「研究に熱中し、人体実験を無意識にやってしまった」「医学上の新学説を発見するため」などと自白したとされている。無給医局員の不安定な生活への不満、愉快犯としての要素、日本医科大出身である鈴木充の千葉大医局での疎外された存在、このようなことが事件の動機とされた。

 鈴木充は千葉大カステラ事件でも起訴されている。千葉大カステラ事件とは東京オリンピックのあった昭和39年11月、千葉大第一内科の研究室に置いてあったカステラを食べた室長、技術吏員、看護師ら4人が激しい下痢と発熱をきたして大学病院に入院した事件である。

 原因としてカステラを疑った加藤直幸研究員が、床に落ちていたカステラ片を培養し、赤痢菌を見いだしたのだった。この赤痢菌による千葉大カステラ事件も鈴木充によるものとされた。

 チフス菌事件で鈴木充は、いったん犯行を自供したが、その後、自供を翻し無罪を主張した。裁判では、腸チフスの集団発生が鈴木充による人為的な犯行なのか、あるいは自然発生による流行なのかが争点となり16年もの長い裁判となった。

 昭和47年7月8日、千葉地裁の第一審の判決では、鈴木充は証拠不十分で無罪となった。犯行の動機があいまいだったこと、腸チフスの摂取と発症までに時間のズレがあること、赤痢菌や腸チフス菌はカステラに注入しても増殖しにくいこと、つまり自供した方法ではチフスを発症させることは不可能とされ無罪となった。検察側の主張した菌の注入方法では腸チフスは発症しないとしたのは、米国の刑務所で行った人体実験をよりどころにしており、裁判官は「一抹の疑惑は残る」と異例の発言を付け加えた。

 検察はすぐに控訴し、昭和51年4月30日、東京高裁で懲役6年の逆転有罪判決が下された。逆転有罪の決め手になったのは、千葉大病院と三島病院から検出された腸チフス菌がいずれもD2型菌で、同じ特性を持った腸チフス菌だったことである。

 千葉県と静岡県の集団感染がお互いに無関係ならば、菌の型や性質が同一のはずはないとされた。この菌の分析から、鈴木の犯行の可能性が高いと判断したのである。また鈴木充の自白には一貫性があり信用できるとした。犯行の動機は性格異常に加え、医局への潜在的な不満によるとされた。

 鈴木充は最高裁に上告したが棄却され、事件から16年後に懲役6年の有罪が確定した。鈴木充は無実を主張しながら6年の刑期を刑務所で過ごすことになった。有罪が確定したために、昭和58年9月28日、医道審議会は鈴木充の医師免許を取り消した。

 鈴木充が果たして集団腸チフス事件の犯人なのか。この事件を取材し、冤罪を主張する畑山博がノンフィクション「罠」を書き、冤罪の根拠を次のように述べている。当時、腸チフスの自然発生はかなりの頻度で発生しており、病院での腸チフスの集団発生は管理体制としての病院の責任に結びつくものであった。さらに病院を管理する厚生省の責任も重大で、病院側と厚生省は管理体制の不手際を隠すため、この事件の犯人を鈴木充にでっち上げたとしている。

 この事件で、鈴木充は有罪判決を受けたが真相は闇に包まれたまま、科学的とみられるこの裁判が真実を裁いているかどうか永久に不明である。この千葉大腸チフス菌事件は、読売新聞が行った昭和41年の10大ニュースの第3位であった。いかに国民の関心が高かったかが想像できる。