公害列島 

公害列島 昭和45年(1970年)

 昭和25年の朝鮮戦争による特需を契機に日本の重工業が復興、重工業の復興とともに日本の経済は高度成長の波に乗ることになった。昭和43年、日本の国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き、アメリカに次いで世界第2位となり、国民の生活水準は飛躍的に向上したが、その代償として工業化による環境汚染が広がっていった。

 日本に豊かさをもたらした経済成長のゆがみが、公害となって日本を侵していくことになる。生活の豊かさに比例するかのように環境汚染が進み、高度経済成長のツケが回ってきたのだった。とりわけメチル水銀中毒による熊本水俣病と新潟水俣病、カドミウム中毒のイタイイタイ病、大気汚染の四日市喘息は「四大公害病」と呼ばれ、その他、数多くの公害が日本各地で引き起こされた。

 工業先進国を目指していた政府は、企業を優先させ公害への対応が遅れていた。地方自治体は地元に税金や雇用をもたらす企業の誘致に熱心だった。また面倒なことに、環境汚染は特定の工場による汚染だけでなく、複合汚染で汚染の犯人を特定しにくかった。

 特に自動車の排気ガスは、運転手一人ひとりが犯人であるが、一人ひとりに自覚を求めることは困難であった。日本の公害への対応は遅れたが、あまりにすさまじい公害は住民運動を引き起こし、政府は重い腰を上げざるを得なくなった。

 昭和42年に公害基本法が設定され、大気汚染防止法、環境庁設置などが打ち出された。社共推薦の美濃部亮吉が「東京に青空を」のスローガンを掲げ、独特のスマイルで東京都知事選に当選したのも昭和42年のことであった。公害は深刻な社会問題になり、昭和45年の第1回公害メーデーでは「青空と緑を取り戻すこと、国民の命を守ること」がスローガンになり、全国150カ所で82万人が参加した。

 昭和45年、「公害」「公害列島」という言葉が誕生したが、公害という言葉は英米法のパブリック・ニューサンス(公衆への生活妨害)に相当する言葉であった。この年は大阪万博や国産宇宙衛星の打ち上げの成功に沸き、日本の経済成長を実感する一方で、公害が深刻化した年でもあった。


【田子の浦のヘドロ】

 静岡県富士市の田子の浦は日本有数の景勝地で、富士山の眺望と切れ目のない青松がどこまでも続く海岸を有していた。万葉の歌人・山部赤人が、「田子の浦 うち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」と歌を残していた。

 田子の浦は、富士山の清澄な伏流水を利用した和紙作りの盛んな土地であった。この豊富な地下水と森林資源に恵まれた富士市に、大昭和製紙を筆頭とした製紙工場が戦後建設され、富士市は工業都市として発展することになる。この製紙工場が景勝地である田子の浦の風景を一変させた。

 製紙工場は製紙工程で大量の燃料と水を必要とし、チップなどの原料から大量の汚水が発生した。製紙のカスであるヘドロが1日に3000トンも排出され、ヘドロによって田子の浦の浅瀬が埋め尽くされた。ヘドロは有機物を含んだ粘土質のもので、製紙工場から排出されたヘドロがドロドロと堆積して悪臭を放った。

 田子の浦では、奇形の魚が釣れるようになり、アワビやサザエを捕っていた海女たちは、原因不明の蕁麻疹に悩まされた。そして昭和45年7月、ヘドロによって貨物船の運航が不可能になる事態へ進展していった。

 昭和45年8月9日、ヘドロ公害追放住民大会が開かれ、漁船144隻が海上デモを行った。住民たちはヘドロを除去しようとしたが、ヘドロが発生する毒ガスで中毒症状を起こすほどであった。日本の誇りである富士山を背景に、アブクで埋まった田子の浦が全国に放映され、国民に大きなショックを与えた。田子の浦の公害はヘドロだけでなく、大気汚染もすざましく、富士市の工場が使用する重油は1日3200キロリットル、発生する二酸化硫黄の量は1日130トンに達していた。

 昭和52年の公害病患者は912人、死者が39人となった。富士市はさまざまな公害を抱え、公害のデパートといわれた。静岡県は港内に堆積したヘドロの処理を行い、約182万3000m3のヘドロを除去したのは昭和55年のことであった。

 このように公害問題は日本中で吹き荒れ、政府は公害を抑制するための官庁として昭和46年7月に環境庁を誕生させた。当初の名称は「公害安全庁」であったが、「環境保護庁」に変わり、最終的には環境庁に落ち着いた。平成13年1月には省庁再編で環境省に昇格している。


【光化学スモッグ】

 昭和45年7月18日の昼すぎ、東京都杉並区堀ノ内にある東京立正高校のグラウンドでソフトボールの練習をしていた女子生徒たちが、突然、吐き気、目の痛み、呼吸困難を訴えだした。プールで泳いでいた生徒も同様の症状を起こし、女子生徒たちは保健室や応接室に寝かされた。時間とともにその数は増え40数人にまで達して痙攣を起こす生徒もいた。

 学校周辺を救急車が走り回り、サイレンの音が響きわたり、学校周辺は騒然となった。その日、症状を訴えたのは立正高校の生徒だけではなかった。杉並区、世田谷区など東京都各地で目の痛みや吐き気などを訴える者が続出した。4日間で被害者は5000人を超え、被害者の大半が学生だったことから、文部省は空気のきれいな田舎に学童疎開を検討するほどであった。

 東京都の公害規制部と公害研究所がこの事例を新たな公害として調査を開始。その結果、原因を光化学スモッグによる公害と断定した。

 それまでの公害は、水俣病(熊本県水俣市)やイタイイタイ病(富山県神通川流域)など特定の企業による環境汚染で、戦後の復興と高度経済成長を目指すには不可抗力とする雰囲気があった。しかし東京を襲った光化学スモッグは、公害を自分たちの身近な問題としてとらえられることになった。

 光化学スモッグとは、煤煙(スモーク)と霧(フォッグ)を合成した造語で、自動車の排気ガスに含まれる窒素酸化物などが太陽の紫外線を受け、大気中で光化学オキシダントに変化することによる。光化学オキシダントは、目やのどの痛みを引き起こし、さらに頭痛や胸痛、意識障害などの重篤な症状まで示すことがあった。この大気汚染物質の被害は人間だけでなく、植物にも影響を及ぼした。植物の葉の表面には白い斑点が現れ、草花は醜く枯れていった。

 光化学スモッグの予防は屋外に出ないこと、さらにうがいをして目を洗うことである。そのため光化学スモッグ警報が出ると、外出を控え、うがいや洗顔を行うようになった。

 日本の光化学スモッグは東京都杉並区が最初の事例であったが、自動車大国であるアメリカのロサンゼルスでは、東京の発生以前から小規模な光化学スモッグがあった。光化学スモッグは風が弱く、紫外線が強い夏場におきやすい特徴があった。

 光化学スモッグは東京だけでなく、大都市で続々と発生し、国民一人ひとりの問題となった。そのため各都道府県は大気汚染防止法に基づき大気汚染のレベルを条例で定め、レベルを超えた場合には警報を出すようになった。注意報は1時間値0.12ppm、警報は0.4ppm以上が採用された。

 昭和48年前後が光化学スモッグのピークで、首都圏では光化学注意報が1年間に45回出され被害者は3万人に達した。環境庁は光化学スモッグ対策として自動車の排気ガスを規制し、自動車メーカーに規制基準を守ることを通知した。当初、この規制基準が厳しすぎると指摘されたが、ホンダがCVCCエンジンを、東洋工業がロータリー・エンジンを完成させ、各自動車会社はそれに続き基準合格車を完成させた。

 日本の排ガス規制は欧米よりも厳しいものであったが、それをクリアするための技術が優位に働き、日本車が世界市場で販売されるようになった。この技術改革により日本車が欧米自動車会社の脅威となるまでに成長した。

 この光化学スモッグ排ガス規制により、自動車の排気ガスはきれいになり、またオイルショックの影響、工場の窒素酸化物対策などにより、昭和50年代後半から光化学スモッグは激減し、現在では光化学スモッグは死語に近い言葉になっている。現在では想像もできないが、かつての東京の空は排気ガスでどんよりと曇り、太陽は乳白色に濁っていた。


【四日市喘息】

 昭和25年、中東の原油が生産過剰から原油の国際価格が低下した。そのためGHQは国際石油資本を救済するため、日本の輸入原油の精製を解禁した。輸入原油の精製には、石油化学コンビナートとして広大な湾岸用地が必要だった。

 用地として四日市(三菱)、徳山(出光)、岩国(三井)などの旧日本軍の燃料廠跡が一括入手された。その際、政治家、官僚、企業グループの癒着が表面化して、世論の強い批判を浴びることになる。一方、当時の臨海コンビナートは高度経済成長の旗手とされ、地方自治体はコンビナートの誘致に奔走した。

 伊勢湾に面した三重県四日市は、かつては美しい浜辺が続く勝景の海岸を有していた。四日市市塩浜にある元陸海軍燃料廠跡が、シェル石油系の昭和石油と三菱系化学企業を中核とした石油化学コンビナートに払い下げられ、この美しい浜辺は東洋最大規模石油化学コンビナートに生まれ変わった。

 昭和32年、三菱を中心とした精油所の建設が始まり、34年に第1コンビナートが完成。次いで大協石油と中部電力から成る第2コンビナートが完成した。このコンビナートが作動すると、四日市の海水は次第に汚染されていった。伊勢湾の魚は石油の臭いがして、そのため魚の値段は下がり漁民は打撃を受けた。

 もちろん原因は石油コンビナートであったが、企業は住民の訴えを聞こうとしなかった。海の汚染は戦争中に沈没したタンカーの油が漏れたせいと主張した。この石油の臭い以上に住民を困らせたのは亜硫酸ガスによる悪臭であった。四日市の石油コンビナートは、利益は中央の企業に流れ、損失だけが地元に残る典型的な国内植民地的な開発であった。

 昭和34年ころから、喘息などの呼吸器症状を訴える患者が多発するようになった。また患者の症状は喘息だけでなく、慢性気管支炎、肺気腫、さらには感冒様症状、扁桃炎、結膜炎などのさまざまな症状を引き起こした。

 特にコンビナートの排煙が流れ着く四日市の塩浜地区、磯津地区の住民に被害が多かった。塩浜地区の住民は外出時にはマスクを着け、学校では悪臭のため夏でも窓を開けられない日が続いた。当時の学校にはエアコンがなかったため、夏の授業は灼熱(しゃくねつ)地獄の教室で行われた。

 四日市市は、昭和35年に公害対策委員会を発足させ、三重県立大学医学部公衆衛生学教室の吉田克巳教授、名古屋大学医学部の水野宏助教授に環境汚染と呼吸器症状との因果関係についての調査を依頼した。吉田教授らは硫黄酸化物濃度が汚染地区では名古屋の4倍であること、硫黄酸化物濃度と喘息発作との間に高い相関関係があることを指摘し、コンビナートから排出される硫黄酸化物が気管支喘息の原因と結論づけた。地域住民は再三にわたり公害の早期解決を訴えてきたが、各企業はこれを無視して操業を続け、さらにコンビナートの拡大まで計画していた。四日市市や三重県は公害対策をしなかったため、喘息患者は増え続けていった。

 昭和42年、四日市喘息の患者とその遺族12人が、昭和四日市石油、三菱油化、三菱化成、三菱モンサント化成、石原産業、中部電力の6社に対し、「工場から排出された亜硫酸ガスで健康を害した」として慰謝料を請求する訴訟を起こした。被告となった6社は、各工場の排煙の大気汚染濃度は煤煙(ばいえん)規制法の規制以下の数値で、違法性はないと反論した。

 昭和47年7月24日、津地方裁判所四日市支部は企業による大気汚染に対し、「気管支喘息などの症状は、企業が排出した亜硫酸ガスなどの硫黄酸化物が原因である」として、闘病生活による収入減、家庭生活の破壊、精神的苦痛に対し、企業6社は連帯して総額8821万円の損害賠償額を原告12人に支払うよう命じた。

 大気汚染と喘息との因果関係を否定し、病気への責任はないと主張していた企業に、裁判長は「疫学的に相関関係がはっきりしていれば、因果関係に科学的論争は必要ない」として患者側の勝訴とした。人間の生命に危険をもたらす汚染物質については、企業は経済性を度外視して最高の技術を導入して防止の措置を取るべきとした。

 賠償金額は請求額の4割5分にとどまったが、6社ぐるみの共同不法行為が認められたのである。裁判長は国や地方自治体が地域振興のために被告企業を誘致した責任についても言及した。

 この判決を受け、会社側は硫黄含量の多い重油から低硫黄重油への切り替え、ボイラーに脱硫装置を設置し、60メートルの煙突を150〜200メートルの高煙突へ変え、工場周辺に植樹することになった。昭和51年末の四日市ぜんそくの認定患者は1112人であったが、それ以降、新規の患者数は減少していった。

 四日市公害訴訟は、大気汚染の総量規制、亜硫酸ガスの環境基準の改正、公害健康被害補償法の制定などに影響を与えた。この裁判は大気汚染だけでなく、公害対策の進展に大きく寄与することになった。

 この裁判は、全国の石油化学コンビナートの公害対策に大きな影響を与えた。企業が個別に公害規制法を順守しても、結果として公害被害が発生した場合、企業の法的責任が問われることになった。高度経済成長期社会が生んだ公害に対し、四日市公害訴訟は全国的な住民運動のきっかけをつくり、被害住民が公害訴訟で勝訴したことできれいな環境が戻ったのである。