三島由紀夫割腹事件

三島由紀夫割腹事件 昭和45年(1970年)

 昭和45年11月25日午前10時45分、世界的に有名な純文学作家・三島由紀夫(45)が、自ら結成した民間防衛組織「盾の会」の会員4人を引き連れ、東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地を訪ねた。三島は前日に陸上自衛隊東部方面総監である益田兼利陸将(56)に面会を申し込んでおり、盾の会の制服を着た5人は2階の総監室に案内された。

 三島由紀夫は日本刀を持っていたが、指揮刀と称して総監室に持ち込むことができた。かねてから交友のあった益田陸将としばらく雑談を交わし、三島が総監に持参の日本刀を見せようとした瞬間、三島がハンカチを取り出すのを合図に4人が益田陸将を羽交い締めにして椅子に縛りつけた。

 部屋の外にいた自衛官がこの異変に気づき、総監室に入ってきたが、三島は日本刀「関の孫六」を抜き、4人は短刀を振るい、中村二等陸佐が三島の日本刀で左腕を切られ重傷を負うなど自衛官5人が負傷した。

 三島由紀夫らは机やいすで部屋の内側からバリケードを築き、陸将を監禁して立てこもった。騒ぎを知って駆けつけた吉松幕僚副長がガラス窓越しに説得したが、三島は受けつけず、正午までに自衛隊員を本館前に集めるように要求した。

 三島由紀夫が立てこもった総監室はかつて大本営が置かれていた歴史的な部屋で、部屋の前には正面バルコニーがあった。三島は総監室から正面バルコニーへ出ると、集められた約1000人の自衛隊員の前で要求書の垂れ幕を下ろし、檄文(げきぶん)をばらまいた。カーキ色の楯の会の制服を着た三島は、七生報国のハチマキを締め、約10分間にわたり演説を行った。

 三島由紀夫の主張は、「米軍の支配下にある自衛隊の自立、憲法改正のための決起、民族の自立、天皇を中心とした日本の伝統の擁護」であった。戦後、日本民族は深い惰眠をむさぼり、日本の文化は破壊され、日本の伝統は後退して武士の魂は失われた。このことに危機感を持っての演説であった。

 「日本人は戦後の経済繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さず末に走り、自ら魂を空白の状態へ落とし入れた」と訴えた。さらに国を防衛すべき自衛隊が妥協と欺瞞の政治の中で、ご都合主義の法的解釈でごまかしているとした。三島の演説は、荒廃した日本に活路を見出そうとするもので、自衛隊の治安出動によってクーデターを起こそうとしたのである。

 「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬやつはいないのか。もしいれば、共に立ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が一個の男子、真の武士としてよみがえることを切望する」、「今から国会を占拠し、憲法を改正しよう」。三島はマイクを使わず必死に訴えたが、彼の演説はあまりに唐突で、声も届かず、集まった自衛隊員には通用しなかった。

 三島の演説はテレビで放映されたが、バルコニーからの三島の演説に対し、まじめに耳を貸す者はいなかった。むしろ演説する三島に「バカヤロー」「頭を冷やせ」「英雄気取りはよせ」などの野次や罵声(ばせい)が飛んだ。

 自衛隊員への檄文、三島由紀夫の絶叫は悲壮感を帯びていた。三島の演説は不発に終わったばかりか、時代錯誤の醜悪と受け止められた。サラリーマンと化した自衛隊員に武士という言葉は通用しなかった。演説は2時間の予定だったが、野次と上空を飛ぶヘリコプターの騒音にかき消されわずか8分で終わった。

 三島は自衛隊の決起はないと判断、皇居に向かい天皇陛下万歳を三唱し、再び総監室に戻ってきた。三島は益田総監の前で制服のボタンを外し、上半身裸になるとじゅうたんの上に正座し、古式にのっとり、銘刀「関の孫六」で左脇腹から右へ腹部を切り裂き割腹自決を遂げた。後ろに立った森田必勝(25)が日本刀で三島を介錯(かいしゃく)、次いで森田も切腹を遂げた。

 血の海となった総監室に残された古賀浩靖(23)、小賀正義(22)、小川正洋(22)の3人は三島の遺した命令に従い、三島と森田の2つの首を遺体の前に並べ、上から制服を掛け部屋を出た。すべてが終わったのは午前12時23分だった。

 翌朝の朝日新聞に三島と森田の首の写真が掲載された。2人の遺体は慶応大病院で検死を受けたが、見事なほどに腹部は深く切られていた。

 三島由紀夫は日本を愛し、必死の形相で自衛隊に決起を呼び掛けたが、彼の愛国主義によるクーデターは失敗に終わった。文学的手法では人々の心は動かず、理想と現実は小説以上に分離していた。しかしあれほど有名な三島由紀夫が、自衛隊の決起を本気で信じていたのだろうか。もし自衛隊が三島に賛同して決起したら、どうするつもりだったのか。クーデターに失敗しての切腹ではなく、切腹を演じるためのクーデターだったのではないか。三島は日本文化を天皇制中心の華麗な古典主義ととらえ、日本人の生き方を武士の生き方と重ね合わせていた。葉隠に書かれた「武士道とは死ぬことと見つけたり」を美的で英雄的な死としていた。

 形の上では日本国憲法と民主主義に対する死の抗議であったが、憂国の士としての最後のかけだったとは思えない。自らの小説「憂国」の主人公・武山信二中尉が腹を切ったように、自分の人生を小説のように演じたように思える。

 三島の真意は分からないが、前代未聞の事件は世間を驚かせた。佐藤栄作首相は官邸での昼食中にテレビ速報で事件を知り、記者団に感想を問われると、暗い顔で「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」とコメントを述べた。中曽根康弘防衛庁長官は「迷惑千万」と語った。作家の井上光晴は「三島は必死に自分の思想を追求した結果、現実との相違に失望して死んだ。その思想も行動も全く漫画的で無意味である」。このように見識者のコメントも、マスコミの論調も「狂気あるいはピエロ」だった。「法秩序を乱す思い上がりの幻想」と受け止められていた。

 確かに三島由紀夫の唱える古典的天皇制は非現実的で、天皇陛下万歳を唱えて自決することが、たとえ純粋であっても時代錯誤であった。天才なのか狂気なのか、三島由紀夫の衝撃的な行動と死は日本だけでなく世界中を驚かせた。大正元年、乃木希典が明治天皇への殉死として割腹自殺しているが、三島の割腹自殺はそれ以上の衝撃をよんだ。

 三島由紀夫は本名・平岡公威(きみたけ)。大正14年に東京・四谷に生まれ、祖父は元樺太庁長官の平岡定太郎である。父親の平岡梓は東京帝大から農林省に入り水産局長を務め、母親は開成中学の校長で儒教学者・橋健三の次女であった。

 三島由紀夫は学習院初等科のころから病弱で、文学にあこがれ多くの書物を読んでいた。学習院中等科のころから文学を志し、俳句や詩歌などを作り、16歳で処女作「花ざかりの森」を書いている。19歳時に学習院高等科を首席で卒業、天皇陛下から銀時計を授かり、東大法学部に推薦入学している。

 大学生時代に文学的才能をノーベル賞作家・川端康成に見いだされ、川端康成の推薦で雑誌「人間」に「煙草」を発表して文壇デビューとなった。昭和22年に東大法学部を卒業して大蔵省に入るが、翌年には創作活動に専念するため大蔵省を1年で退職した。三島由紀夫の作品は緻密に計算された物語性が特徴で、昭和24年に「仮面の告白」で文壇の注目を集め、「愛の渇き」「青の時代」「潮騒」などの小説を次々に書き、その才能を十分に発揮した。

 昭和32年に書いた「金閣寺」は11カ国で翻訳され、三島由紀夫は世界的作家となった。それ以降、「美徳のよろめき」「鏡の家」「宴のあと」「憂国」などの小説を書き、また独創的な戯曲や切れのいい評論を次々と発表し、作品を書くたびに話題を集めた。昭和40年と42年にノーベル文学賞候補になっている。

 文学以外でもボディービルで身体を鍛え、剣道4段で、自作の映画にも出演して話題をまいた。文壇をリードしていたが、文学から次第に政治的な発言を強め、「天皇を日本文化の中心にすること」を主張した。当時は左翼全盛の時代であったが、三島は左翼陣営に対抗する右翼の論客として担ぎ上げられ、また自衛隊に体験入学した学生らと「楯の会」を結成した。「楯の会」は民間防衛組織で、隊員は早大、東大、京大など学生95人から構成され、反共、天皇制支持、暴力是認を掲げていた。楯の会会員はカーキ色のダブルの軍服を着て、規律と品位を保つことに重点が置かれ、隊員は自衛隊での1カ月以上の体験入隊を義務づけられていた。

 三島由紀夫は、天皇を歴史の文化的連続性と捉え、民族的同一性の象徴とした。共産主義は日本の伝統と文化に反するもので日本の歴史とは相容れず、暴力否定は日本共産党の宣伝に乗るだけとして暴力を是認した。

 当時は大阪万博が成功し、日本中が好景気に浮かれていた。そして戦後の経済的繁栄の反動として左翼運動が活発化していた。このような時代の中で、偽善に満ちた日本の表面的な繁栄に義憤を感じている者がいた。三島の死を憂国と捉え、三島が命を掛けて「たるみきった日本に活を入れた」と心に秘めながらも、声に出して賛同することはできなかった。

 三島由紀夫の葬儀には8200人が集まったが、評論家の参列は少なく、参列者の多くは何も語らなかった。三島由紀夫の葬儀委員長は川端康成が務めたが、川端康成は総監室での現場検証で三島由紀夫の首を見ており、そのショックは計り知れないものであった。川端康成は三島由紀夫の死から2年後の昭和47年4月16日、三島の後を追うように逗子マリーナのマンションで水割りを飲み、布団の中でガス管をくわえ自殺している。

 三島由紀夫は昭和の年号と自分の年齢が同じであった。激動の昭和とともに生き、自らの芸術を開花させ、三島の死は彼の美学の総括だったといえる。三島の事件から1カ月後に朝日新聞は大学生にアンケート調査を行ったが、三島の死をバカバカしい自己陶酔ととらえる否定派、死をかけての主張とする心情共感派、行動が理解できずショックを受けたとする不可解派、この3つの受け止め方がほぼ同数であった。

 現在、山梨県山中湖の湖畔に三島由紀夫文学館が建てられ、多くの資料が並べられている。小説家が小説を完了させるように、三島由紀は「切腹という死」をもって人生を完了させ、それを三島美学として永久に残したのである。