ハンセン病治療に尽力の医師

ハンセン病治療に尽力の医師 昭和45年(1970年)

 昭和45年12月12日、ハンセン病(らい病)の治療に尽くした小笠原登医師が、肺炎のため故郷の愛知県甚目寺町(じもくじちょう)にある真宗大谷派の円周寺で亡くなった。82年間の名誉ある人生であった。

 ハンセン病は、明治時代から90年間にわたる強制隔離政策がとられ、患者の差別と偏見を招いていた。小笠原医師は国賊と言われながらもこの強制隔離政策に反対し、患者の治療のためにすべてを尽くした。小笠原医師は現代医療思想の先駆けとして高く評価されている。

 小笠原医師は円周寺に生まれ、真宗大谷派の僧侶でもあった。祖父・小笠原啓實は漢方医を兼ねた僧侶で、寺でハンセン病患者の療養をしてきた。国の隔離政策が行われるまではハンセン病患者は寺院に集まり生活をすることが多かった。

 小笠原医師の医療を支えた背景には、ハンセン病患者が集まる寺院に生まれたこと、また仏教への信仰が強かったことがある。漢方医であった祖父の治療を通じて、ハンセン病の感染力は弱く、遺伝性はないと確信していた。

 小笠原医師は旧制三高から京都帝大医科大学(現京大医学部)に進学、大正4年に卒業すると、京大医学部皮膚科でハンセン病の治療と研究を始めた。小笠原医師は「隔離政策」に反対しながら外来で治療を行っていた。京大時代に診察したハンセン病患者は1500人を超えたとされている。

 当時の医師はハンセン病の感染を恐れ、患者に触れないで診察していた。しかし小笠原医師は患者を直接手で触り診察した。診察が終われば手を洗うが、患者の目の前では決して手を洗うことはなかった。患者の心を傷つけたくなかったからである。ハンセン病と診断すれば、医師には届け出の義務があり、患者は強制隔離された。そのため患者には「進行性皮膚炎」などの偽りの病名をつけ、あるいは病名を書かないで診療した。

 ハンセン病の強制隔離政策は、ハンセン病を伝染病とする光田健輔医師(1876〜1964)の学説から打ち出され、隔離政策を当然とする考えに医学界も国民も縛られていた。国は各地に療養所をつくり、ハンセン病患者の隔離政策を進めていた。

 「大和民族の純潔を守るため、多数の国民の安全を守るためには少数の人権無視はやむを得ない」。このような隔離政策には、ハンセン病を恐ろしい伝染病とする以外に、醜い形相を世間から隔離しようとする意図があった。

 小笠原医師はハンセン病の感染力は弱く患者を隔離する必要がないこと。つまり感染しても発病は個人の体質に大きく左右されるとする「体質説」を昭和16年に発表したが、この体質説は学会から攻撃を受け、小笠原医師は学会や社会から異端視され、国民からも隔離制度を混乱させる国賊とされた。そのため生前の小笠原医師への世間の評価は低いものであった。京大でも助教授のままで退官しているが、医学史の視点からみれば、小笠原医師の学説が正しかった。

 戦後、基本的人権を尊重する憲法ができたが、ハンセン病患者の人権はないに等しいものであった。アメリカでハンセン病の新薬プロミンが開発され、昭和24年頃から日本でも使われ、この特効薬によりハンセン病は不治の病ではなくなった。しかし昭和28年に「癩予防法」は「らい予防法」と名前を変えたが隔離政策は継続された。プロミンの普及で療養所の患者に希望が広がり、ハンセン病の国際会議(ローマ会議:昭和31年)では日本の隔離政策が批判された。世界の流れは開放治療へ向かっているのに、日本では隔離政策が続けられていた。「らい予防法」は近い将来改定するとの条件つきだったが、平成8年の廃止まで40年間も放置された。その間にも患者への偏見と差別は増幅され、このことはハンセン病の本質を知る医師たちの怠慢といえる。

 京大勤務時代の小笠原医師は、毎年のように医学雑誌などに論文を書き、昭和23年から60歳で退官する昭和48年まで、論文数は110を超えていた。京大退官後は国立豊橋病院(愛知県豊橋市)や国立療養所奄美和光園(鹿児島県名瀬市)に勤務し、論文発表を続けていた。

 小笠原医師は医師として診療を行い、研究者として多くの学会に報告している。また漢方に関する論文も多く書いているが、それは西洋医学だけでなく、東洋的、仏教的な思想を医学や医療に応用したかったからである。

 京大の皮膚科時代の患者が、豊橋の円周寺を訪ねてくると、診察を終えたあと患者と一緒に食事をとり宿泊させた。どこまでも患者に温かい医師であった。 

 小笠原医師の写真を見ると、いつも黒の詰め襟の服を着ていた。頭髪も短く刈り込み、黒衣の僧侶が医者になった感じである。さらに強い信念を持っていたことが伝わってくる。

 小笠原医師が活躍した時代は、大正デモクラシーから軍国主義への転換期で、非民主的な政策がまかり通っていた。ハンセン病患者の隔離政策もそのひとつで、時代の流れの中で自分の思想を捨てなかった小笠原医師の内面の強さは高く評価される。

 小笠原医師と同じ考えを持つ医師として大谷藤郎がいた。大谷医師は京大医学部の学生時代に小笠原医師の研究を手伝い、後に厚生省医務局長となってらい予防法の廃止に尽力した。その後、ハンセン病の啓発団体「財団法人藤楓協会」理事長、国際医療福祉大学学長となっている。ハンセン病を語る場合、この2人の医師の存在を無視することはできない。

 小笠原医師は70歳を超えてから奄美大島の和光園療養所で7年間を過ごし、300人の患者の診察にあたった。療養所では患者に慕われ、奄美の良寛さまと言われていた。

 奄美大島から故郷に戻り、肺炎で亡くなったが、円周寺にある小笠原医師の墓は、墓といっても墓標はない。それは、「みんなと同じように土に埋めてほしい」という本人の遺志からであった。墓地の一角に小さなお地蔵さんが立っているが、その場所に遺骨が埋められている。

 小笠原医師が亡くなってから、ハンセン病の発病に至る体内のメカニズムが急速に解明され、発病の仕組みが遺伝子レベルで解析れるようになった。かつては国賊と呼ばれた小笠原医師は再評価され、平成13年に東京弁護士会から東弁人権賞を受賞している。