チクロ騒動

チクロ騒動 昭和44年(1969年)

 チクロは砂糖に似た合成甘味料で、その甘さは砂糖の約30倍とされている。昭和32年から食品添加物としてチクロが使用され、サッカリンやズルチンとともに貴重な甘味源とされてきた。ところがアメリカで、チクロに発がん性があることが問題になり、チクロの使用が禁止されたことが大きく報道された。

 昭和44年10月29日、厚生省はこのアメリカの動きを受け、日本でもチクロの使用を禁止することを決定、さらに厚生省はチクロの使用禁止だけでなく、チクロが入った製品をすべて回収するとした。

 厚労省は回収期間を清涼飲料水は昭和45年1月末まで、その他の食品は昭和45年2月末まで、医薬品は昭和45年6月末までに行うと各食品業界に通達した。この厚生省の措置により、市場から半年以内のチクロ回収が義務づけられ、食品業界は大混乱となった。回収までの期間があまりに短かったからである。

 国が食品添加物として認めていたチクロを、国が突然禁止したことにより倒産する会社まで出現した。なにしろ缶詰業界は1年分がすでに流通していた。また漬け物は市場に出る前に2年間寝かせておく必要があった。厚生省の回収命令により食品業界が受けた被害は1000億から2000億円とされた。

 チクロはシクロヘキシルスルファミン酸ナトリウムの略名で、1939年アメリカのイリノイ大学のスベーダによって発見された化合物である。砂糖に近い穏やかな味のため、1944年から世界中で使用されてきた。

 チクロは水に溶けやすく、熱に安定していたので、合成甘味料として広く使用されていた。砂糖の値段が高かったこともあって、チクロは多くの食品に含まれ、チクロの入っていない食品を探す方が難しいとさえいわれていた。

 懐かしい話であるが、当時の日本で流行した商品に「粉末ジュース」がある。それまでジュースといえば進駐軍が持ち込んだバヤリースオレンジを意味していたが、バヤリースオレンジは1本が35円で、とても庶民の手に届く飲み物ではなかった。

 そこへ1袋5円の粉末ジュースが登場したのである。粉末ジュースは粉末を水に入れ、かき混ぜるだけでおいしいジュースが飲めるのである。多くの庶民が粉末ジュースに飛びつき、爆発的ブームを生んだ。

 その代表的製品は渡辺製菓がつくった粉末ジュースで、「渡辺のジュースの素(もと)」の宣伝で売り上げを伸ばしていた。ジュースの素は水に溶けやすく、しかも値段の安いチクロを使用していたので、粉末ジュースは渡辺製菓だけで1日1億杯分が生産されていた。「10杯飲んでも50円、1袋たったの5円」のキャッチコピーが当たったのである。

 ジュースの素をなめると舌がオレンジ色になることや、冷凍庫で凍らせてシャーベットを作ったことを懐かしく思い出す人が多いと思う。このチクロの使用禁止によって、粉末ジュース業界は壊滅的な打撃を受けることになる。渡辺製菓の経営は急激に悪化、鐘紡に吸収合併されることになった。このようにチクロの使用禁止は社会的な影響を引き起こした。

 チクロのがん誘発性はその後の追加試験で否定されている。このようにチクロの発がん性の真実は明らかではないが、このチクロ騒動以降、チクロは合成甘味料として日本では現在も使用禁止となっている。

 チクロに引き続き、同じ合成甘味料であるサッカリンが問題になった。サッカリンの発がん性がいわれたのは、ある研究が発端であった。オスのラットに大量のサッカリンを与えると膀胱がんが生じやすいことが確認されたのである。しかし使用されたサッカリンを人間に換算すると、ダイエットコーラなどの人工甘味料飲料を毎日800本、生涯にわたって飲み続けるほどの量だった。いずれにせよFDA(米食品医薬品局)はこの動物実験の結果を受けサッカリンを使用禁止とした。

 サッカリンは、蔗糖(しょとう)の500倍の甘味を持ち、体内に蓄積されず、そのまま尿中に排泄された。このことからダイエットとして重宝されていた。また微生物の成育を阻害しないことから、漬け物類の甘味料として広く使用されていた。日本ではサッカリンの使用禁止が議論されたが結論は出ず、発がん性は不明のままサッカリンの使用量が制限され、現在ではチューインガムにのみに限定使用されている。

 このようにチクロは日本では使用が禁止され、サッカリンは使用が制限されることになった。日本では法律で禁止が決定すると、禁止のままであるが、欧米ではいったん禁止されたチクロの発がん性が実験で否定されたため解禁になっている。またサッカリンも同様に解禁されている。

 安全性を考慮すれば発がん性の疑いのあるものは禁止すべきであるが、糖尿病や心臓疾患に悩む欧米では人工甘味料の害よりも糖分の少ない方が健康に良いと判断したのである。現在、欧米ではサッカリンは発がん物質のリストから外されている。

 日本では「チクロは発がん性がある」として使用禁止のままである。中国や台湾ではチクロは認められており、そのため中国や台湾からの食品にチクロが含まれると、業者が食品衛生法違反で摘発されることになる。

 チクロ、サッカリン騒動に続き、厚生省はAF-2騒動に巻き込まれた。AF-2は日本だけが使用している食品添加物で、ソーセージ、かまぼこ、豆腐、めん類などの防腐剤として昭和40年から使用されていた。

 AF-2は殺菌作用が強い添加物で、九州大学で開発され上野製薬が製造販売していた。このAF-2を使用している製造業者に皮膚炎、甲状腺異常、喘息、精神障害などが多発しているとして有害説が唱えられたのである。上野製薬はAF-2の危険性を訴えた郡司篤孝を東京地検に告訴したが、裁判では郡司篤孝氏は無罪となった。

 AF-2の安全性は国立大学医学部の教授のデータによるものであったが、その実験データは上野製薬の研究所で行ったものであった。さらにAF-2を許可する食品衛生調査会の委員が上野製薬の監査役を兼任していた。

 東京医科歯科大学の実験でAF-2に強い変異原性があることがわかり、日本環境変異学会でもその毒性が問題になった。厚生省はこの指摘にもかかわらず、AF-2の安全性をうたうパンフレットを食品業者に配り、国民の不安を取り除こうとした。

 ところが昭和49年、国立衛生研究所が「AF-2の発がん性を示す動物実験結果」を公表し、AF-2は使用禁止となった。欧米では発がん性の疑いから、AF-2はもともと使用されていなかった。日本人だけが発がん性物質を9年間食べ続けたことになる。同年8月22日、ソーセージ、かまぼこ、豆腐、めん類などの防腐剤AF-2の全面使用禁止が決定した。

 チクロ、サッカリン、AF-2などの食品添加物は、それ自身は食品として食べるものではない。食品の製造過程や貯蔵のために添加されるもので、食品衛生法では食品添加物を「食品の製造過程で、加工、保存の目的で使用するもの」と定めている。

 食品添加物を含めた飲食物は、食品衛生法によって使用が制限されている。食品衛生法は、昭和23年に制定された法律で、食品に使用してもよい化学合成品60種類が定められている。欧米では使用禁止の添加物を法律で定めているが、日本は使用可能な添加物を設定していて、その意味では日本の食品添加物への考え方が進んでいる。

 その後、食品添加物の数が増え、現在では化学合成添加物350種類、天然添加物1051種類が食品添加物として認められている。明記された添加物以外を使用することは法律で禁止されている。

 食品添加物は、人間が食べるために作られた化学物質で、生産された食品添加物のすべてが国民の体内に入ることになる。そのため添加物は、量が少なければ大丈夫とはいえない。体内に入る添加物の量を国内生産量から計算すると、日本人は1日平均10g、種類にして約60種類、1年間で約4kgの添加物を食べていることになる。このように大量の添加物であるから、当然、安全性に問題があってはいけない。そのため食品添加物はその発がん性、催奇形性、アレルギー性などが検査され、厚生大臣が使用を許可することになっている。急性毒性試験、慢性毒性試験、発がん試験、催奇形性試験、変異原性試験が行われ、食品衛生調査会によって安全性が評価されている。

 これらの試験は、各1種類の添加物だけについて行われるが、毎日60種類の添加物を食べているのだから相互作用も考慮しなければいけない。多数の化学物質が体内で一緒になった場合、どのような影響が出るのかを正確に調べることは不可能なので、疑わしい化学物質は体内に入れないことである。また農薬、大気汚染、水質汚染物質などとの関係も考慮しなければいけない。

 私たちの食べ物は、米、小麦、肉、魚などさまざまな材料から作られている。これらの材料は私たちの空腹を満たし、栄養のある食料となる。ところが、食品に味を付けるための食塩やコショウのような香辛料、しょうゆなどの調味料などは、食品を作る上で重要ではあっても、私たちの空腹を満たすものではない。いわゆる食品添加物も同様である。

 日本では化学的合成品は原則的に使用禁止で、厚生省が安全性や有用性を検討し、使用しても良いと指定したものが合成添加物(一般に食品添加物)となる。これに対して天然物から取り出したものが天然添加物で、その中には発酵法などで作られたものも含まれている。

 食品衛生法は食品添加物だけでなく、すべての食品に関する元締めのような法律である。加工された食品の内容表示、飲食店の営業許可、食品加工業の営業許可および停止、食品添加物の国家検定、食品に使用する器具・包装の規制、中毒に関する届け出・調査・報告、幼児の使用するおもちゃの規制、保健所による監視業務、検査のための食品の強制収去…、このように食品衛生法は多岐にわたり規定している。