シンナー遊び

シンナー遊び 昭和45年(1970年)

 昭和42年ころから、シンナー遊びが若者の間で流行し、昭和45年には約5万人の青少年が補導された。シンナーは値段が安いこと、入手しやすいことから、若者の間で急速に広まっていった。それまでは覚醒剤が特定の人たちの間で流行していたが、覚醒剤は値段が高いだけでなく販売ルートが限られていたため、若者たちの間では流行しなかった。

 シンナーはペンキなどの塗装を薄めるために用いる有機溶剤で、麻薬や覚醒剤のように販売は規制されていなかった。シンナーは50円で買えるボンドなどの接着剤にも大量に含まれ、誰でも気楽に買える入手の安易さが流行を生んだ。シンナーの主成分はトルエンであるが、その他キシレン、メタノール、エタノール、酢酸エチルなど多種多様の成分が含まれている。

 シンナー遊びは若者の間で流行したが、シンナー遊びのきっかけは刑務所だったとされている。刑務所では酒を飲むことができない。そのため受刑者たちは塗料に使うシンナーを酒の代わりに隠れて使用していたのだった。

 シンナー遊びはビニール袋にシンナーを入れて吸い、あるいは脱脂綿に染み込ませて吸うことが多かった。肺から吸収されたシンナーは脂溶性のため、脂肪組織である脳に作用し、多幸感、酩酊、幻覚を引き起こした。意味も分からず楽しくなり、羞恥心や恐怖感が消失する。ろれつが回らなくなり、歩行もふらつくようになる。夢の中をさまよっているような、いわゆる「ラリった」状態になる。シンナー遊びは、若者の仲間たちが数人で行うことが多かったので、仲間意識からやめることができず、いつしか中毒になっていった。

 シンナー中毒は発育に障害をもたらすが、恐ろしいのは統合失調症(精神分裂病)と似た症状から、殺人などの傷害事件を引き起こすことである。幻覚、幻聴により、窓から飛び降りる転落事故、自動車で運転事故を起こす例が多発した。また自傷事故だけでなく、周囲にも被害を与えた。

 ビニール袋をかぶったままシンナーを吸い、麻酔状態から呼吸苦を感じないまま無酸素状態となり、あるいは急性シンナー中毒で死亡する者が多くいた。死亡事故は友人たちとビニール袋をかぶったまま集団で吸う場合に多かった。特に自動車などの狭い空間でシンナーを吸って死亡する事件が多発した。自動車に150mLのシンナーを持ち込んで気化した場合、車内のシンナー濃度は1%になる。空気中にシンナーが1%含まれると危険な状態となり、2%で死亡するとされている。

 さらにたばこの火がシンナーに引火して火傷を負う事件も多発した。シンナーによる死亡事故は、昭和42年に9人が確認され、翌43年には42人に急増し、補導件数も激増した。シンナー遊びは思春期の終わりとともに多くは卒業するが、シンナーの慢性中毒になると後遺症が残ることが多い。慢性中毒の患者は脳波に異常がみられ、頭部CTスキャンでは脳の萎縮が認められる。また末梢神経障害をきたし、両下肢の脱力や手足のしびれなどの感覚障害を残すことがある。メチルアルコールが含まれているシンナーを吸って失明をきたした例もある。

 シンナーの主成分はトルエンであるが、トルエン中毒は習慣性があって、麻薬と同じ禁断症状が特徴である。トルエン中毒は中枢神経症状が強く、慢性中毒では歩行が困難となり、物をつかめず、手の震えなどの小脳失調症状が出現する。その他、耳鳴り、視力障害、不眠、小脳萎縮、脳波異常など、さまざまな精神神経症状が出現した。

 シンナーやトルエンは脳細胞を破壊し、脳細胞に不可逆的変化を引き起し、その後遺症は覚醒剤より強いとされている。このようにシンナー遊びは麻薬以上に危険で、一時的な快楽や開放感のため一生を棒に振ることになる。平成10年だけでもシンナー乱用者として6611人が検挙されている。


 平成10年1月10日、大阪府堺市でシンナーを吸った男性による通り魔事件が起きている。路上で上半身裸になった無職男性(19)が登校途中の女子高生(15)の背中を包丁で刺し、さらに幼稚園の送迎バスを待っていた幼稚園女児(5)とその母親を包丁で刺した。この事件で園児は死亡し、母親と女子高生は重傷を負った。逮捕された男性は前夜からシンナーを吸っていて、裁判では心神耗弱状態であったとして無罪を主張したが、平成12年2月の1審では懲役18年の判決が言い渡されている。

 この事件が有名になったのは、平成10年4月、月刊誌「新潮45」に男性の顔写真と実名が掲載され、男性がこの顔写真と実名掲載が少年法に違反するとして、編集長と筆者を名誉棄損で告訴したことによる。この裁判の1審では男性側の訴えが通ったが、2審では逆転敗訴となり請求は棄却された。この事件のようにシンナーを吸っての殺人、事故で死亡する自損事故が多発した。

 昭和の時代を振り返ると、街角にしゃがみながらビニール袋を口に当てている若者が目立っていた。シンナーはアンパンと呼ばれ、うつろな視線の若者が街角に散在していた。現在ではシンナー遊びは激減しているが、平成10年の全国中学生の調査では1.2%の中学生がシンナー遊びを経験していた。なおシンナーが入手しにくくなったことで、平成8年頃からシンナー遊びに代わって、ガスパン遊びがはやっている。

 ガスパン遊びとは、ガスライター用のガスボンベからビニール袋にガス(ブタンガス)を注入し、それを吸入して一種の酸欠状態による恍惚(こうこつ)感に浸る遊びのことである。いわゆるアンパンからガスパンへと代わって、ガスパン遊びによる死者が増加した。

 ブタンガスは空気より重いため、いったん吸い込むと肺に蓄積し、肺の換気量が減少し酸欠状態となる。そのため血液中の酸素濃度が低下し窒息寸前に意識が遠くなり、これが恍惚感となる。シンナーが酩酊状態をつくるのに対し、ガスパンは酸欠による幻覚、幻聴を引き起こした。肺にブタンガスが充満すると、そのまま窒息死することになる。シンナー遊び、ガスパン遊び、これらは遊びどころか、極めて危険な自殺行為である。