カネミ油症事件

カネミ油症事件 昭和43年(1968年)

 カネミ油症事件はPCB(ポリ塩化ビフェニール)による日本最大の食品中毒事件である。昭和43年の3月から10月にかけ、北九州市のカネミ倉庫が製造したカネミ・ライスオイルの製造過程で加熱用のパイプからPCBが混入、このPCBの混入によって大規模な中毒事件が起きた。

 カネミ・ライスオイルとはカネミ倉庫が製造した米ぬか油の商品名で、天ぷらやトンカツなどの揚げ物に用いられていた。またライスオイルはコレステロールを減少させると宣伝され、口当たりが軽く風味が良いことから、身体に良いだろうとライスオイルを直接飲む者がいた。カネミ・ライスオイルは台所で静かなブームとなっていた。

 このPCBに汚染されたライスオイルが、目をそむけたくなるような皮膚病変を引き起こした。黒い吹き出物、かゆみ、全身倦怠感、腰痛などの難治性の症状を示し、さらには多数の死者を出すことになった。被害者は1都2府8県で1万4320人、死者50人に達する大惨事となった。

 このカネミ油症事件に言及する前に、この事件の直前に起きた「ダーク油事件」について説明が必要である。もしダーク油事件の原因をきちんと究明していれば、カネミ油症の悲劇は防止できたからである。ダーク油事件とはニワトリに発生したカネミ油症事件であった。

 ダーク油事件は、昭和43年2月頃から西日本一帯で発生した。ブロイラーで飼育されたニワトリが肺水腫などで次々に死んでいった事件で、罹病したニワトリは70万羽、死んだニワトリは少なくても20万羽以上とされている。

 このニワトリの大量死について、当初は新種の伝染病が疑われたが、死亡したニワトリの解剖所見から家畜保健衛生所は中毒死と断定。ニワトリに与えた配合飼料による中毒死と推測した。ニワトリに与えられていた配合飼料は2種類で、2種類とも北九州市のカネミ倉庫が製造したダーク油を使用していた。

 このことから、残されていた配合飼料とダーク油をニワトリに与える実験が行われ、その結果、大量に死亡したニワトリと全く同じ症状が再現され、ニワトリが死亡したのである。この実験からニワトリの大量死亡はダーク油によることが明確となった。

 ダーク油とは米ぬか油を精製する過程で生じる脂肪酸が混じったもので、色が黒いことからダーク油と名づけられていた。ダーク油事件の解明のため、農林省はカネミ倉庫の本社工場に立ち入り調査をおこない、カネミ倉庫のダーク油を分析したが、ニワトリを大量に死亡させた原因を突き止めることはできなかった。カネミ倉庫はダーク油が原因と認めず、「製造の過程で、何らかの理由でダーク油が変質した」ということで落着した。農林省は被害はニワトリであって、人間とは無関係としてそれ以上の調査をしなかった。

 カネミ倉庫はダーク油だけでなく、同じ製造過程で食用のカネミ・ライスオイルも作っていた。ダーク油事件が米ぬか油の変質によるものだとしたら、同じ製造過程で作られているカネミ・ライスオイルの品質を調べるのが当然のである。しかしその点検を見過ごしたことが悲劇を生んでしまった。農林省はカネミ倉庫に対し品質の管理を十分に行うことを命じただけであった。

 このダーク油事件の原因解明が行われていた同時期に、福岡や長崎を中心とした北九州で顔や臀部などに黒いニキビのような吹き出物(後に塩素座瘡と診断)を訴える患者が病院を受診するようになった。それは目をそむけたくなるような皮疹で、四谷怪談のお岩さんのようであった。

 患者は皮膚症状だけでなく、身体のしびれや倦怠感を訴えたが、皮膚症状が目立ったため患者のほとんどが皮膚科を受診した。しかし病院側の反応は鈍く、この奇病が家族内発症を特徴としているのに集団中毒は念頭になかった。九州大学付属病院皮膚科には4家族が受診していたが、半年近くも漫然と診察していた。患者たちに共通していたのは、カネミ倉庫が製造した米ぬか油を使用していたことである。そのことを最初に気づいたのは病院での患者同士の会話からであった。

 福岡県大牟田市に住む九州電力社員の患者(42)が家庭で使用していたカネミ・ライスオイルを九大病院に持ち込み毒物分析を依頼した。だが九大病院はライスオイルを分析せずに、時間だけが経過した。九大病院をはじめとした多くの医療機関は漫然と患者を診察するだけであった。

 ニワトリの「ダーク油事件」は、同年4月にダーク油の出荷が停止され、発症が食い止められた。しかし人間が被害者となったカネミ・ライスオイル中毒は放置されたまま、半年も販売され被害者は広がっていった。

 九電社員の患者は九大病院の対応にしびれをきらし、同年10月4日、奇病が集団発生していると保健所に訴え、ライスオイルの分析を保健所に依頼した。九電社員の訴えから1週間後、この奇病が世間の注目を浴びるようになった。それは朝日新聞の記事がきっかけであった。10月10日の夕刊で、福岡市に住む朝日新聞の記者がこの奇病を報道した。この報道のきっかけをつくったのは保健所でも大学でもなかった。記者の妻の友人がこの奇病に罹患し、苦しんでいることを知ったからである。取材によって同じような患者が九大病院皮膚科に大勢受診していることを知ったのだった。

 朝日新聞の報道によって被害者たちは自分だけでないことを知った。そして翌日の朝刊には、この事件に先だって発生したダーク油事件との関連性が報道された。この朝日新聞の記事をきっかけに、連日のように新聞やテレビでこの奇病が報道されるようになった。

 新聞で報道された翌日、福岡県衛生部の職員4人が九州大学医学部付属病院皮膚科を訪れ、聞き取り調査を開始した。そしてカネミ・ライスオイルを中止すると、症状が消退することを知った。もし九大病院皮膚科がこの事実を保健所に報告し、広く注意を喚起していれば、この事件の被害者は最小限にとどまっていたはずである。このため九大は世間から非難を受けることになった。九大病院皮膚科は学会発表のためにデータ収集と原因分析を優先させ、ライスオイルが原因と知りながら公表しなかったのである。

 福岡県衛生部はカネミ倉庫に、原因が分かるまで自主的に販売を中止するように勧告した。しかしカネミ倉庫は県衛生部の勧告にもかかわらず、自社製品の関与を認めず非協力的な姿勢を貫いた。

 カネミ倉庫の加藤三之輔社長は「わが社の社員、家族、2000人の中から病人は出ていない。問題の油は偽物ではないか」とコメントし、販売を止めるつもりのないことを強調した。カネミ倉庫が県衛生部の勧告を受け入れなかったため、福岡県は食品衛生法に基づき1カ月の営業停止を通告した。カネミ倉庫は従業員約400人、西日本最大の食用油のメーカーであった。

 事件が表面化した段階で、九大病院皮膚科はずさんな対応について患者やマスコミから多くの非難を受けた。しかし集団発生が明確になると、九州大学は大学を挙げて原因究明に取り組むことになる。事件が表面化した4日後の10月14日に、九大病院は勝木司馬之助・病院長を班長とする「油症研究班」を結成した。

 油症研究班には九州大学だけでなく久留米大学からも臨床、化学分析、疫学の専門家が集まり、原因解明に全力を挙げることになった。原因物質としては「皮膚と末梢神経系を侵す毒物」が推測され、有機塩素、リン、ヒ素などがリストに上った。当初は米ぬかの原料に農薬が混入したのではないかとされていた。

 久留米大公衆衛生学部教授は問題の米ぬか油から大量のヒ素が検出されたと発表した。大量のヒ素事件となれば、山口県下で起きた「ヒ素入りしょうゆ事件」や「森永粉ミルク事件」の記憶がまだ人々の記憶に残されていた。しかし九大の油症研究班の分析ではヒ素が見つからず、このヒ素原因説は後退していった。

 疫学調査では患者に性差はなく、どの年齢層にも患者が分布し、顕著な家族性を持っており、何らかの要因がその家族に作用したと考えられた。福岡県内の患者のすべてがライスオイルを摂取しており、しかもライスオイルは同年2月5日と6日に出荷されたものに限定されていた。この両日に出荷されたライスオイルで発症した者は81%で、19%は出荷日不明、違う日に出荷されたライスオイルを使用した者には患者の発生はなかった。

 10月22日、高知県衛生研究所がカネミ倉庫の米ぬか油をガスクロマトグラフィーで分析、米ぬか油から有機塩素物質を検出したと発表した。この有機塩素物質の報告は重要視されたが、どのような有機塩素物質なのかは不明であった。

 10月29日、カネミ倉庫製油工場の立ち入り検査が行われ、油症研究班は持ち帰ったサンプルから塩化ビフェニール(PCB)を検出した。カネミ倉庫製油工場では鐘淵化学工業のPCB「カネクロール」を脱臭目的で使用していた。11月4日、勝木・油症研究班長は「カネミ油症の原因は米ぬか油に含まれていたPCBである」と正式に発表した。PCBは米ぬか油の脱臭のために熱媒体として使用されていたが、PCBはパイプを挟んで米ぬか油に接しているだけであった。PCBはパイプの中を通るだけで、タンクの米ぬか油に混入するはずはなかった。PCBがなぜ米ぬか油に混入したのかが問題になった。

 九大調査団はPCBを通していたステンレスのパイプに圧をかける実験を行い、パイプに小さな穴(ピンホール)が3カ所空いているのを見いだした。つまりこのピンホールからPCBが米ぬか油に混入していたのだった。

 PCBがステンレス製のパイプの中で塩化水素を発生、これが水と反応してパイプに穴を開けたとされたが、このピンホールが原因だったとして、なぜ2月上旬に製造されたものにだけPCBが混入したのか分からなかった。この疑問について、パイプのさびや焦げついたライスオイルが穴をふさいだとされた。

 しかし事故から10年以上たった裁判の過程で、このピンホール流出説が間違いであったことが明らかになった。PCBはピンホールから漏れたのではなく、タンク内にあるパイプの接合部から漏れていたのだった。このパイプの接合部がタンク内にあったことが設計上の重大なミスであった。パイプ接合部がタンクの外にあれば、PCBが米ぬか油に混入するはずがなかった。しかも工場側はパイプの接合部からPCBが漏れていたことを知っていたのだった。一定の量のPCBがパイプの中で循環しているはずなのに、PCBの量が極端に減少しているのを工場側が気づき、パイプ接合部のボルトを締め直していたのだった。このことから2月上旬に製造されたライスオイルのみにPCBが混入して、それを摂取した人たちに被害が出たのである。カネミ倉庫側はこの人為的なミスを隠していたのだった。

 PCBがどのような被害をもたらすかは、先に発生したニワトリの「ダーク油事件」で容易に想像できたはずである。それにもかかわらずカネミ倉庫はPCBに汚染されたライスオイルをそのまま出荷していたのだった。

 先に発生したニワトリの「ダーク油事件」、多くの犠牲者を出した「カネミ油症事件」、この2つは同じ工場の同じ製造過程で米ぬか油にPCBが混入して起きたのだった。ダーク油事件が起きたとき、農林省の関心はニワトリにとどまり、人間にまで及ばなかったことが残念でならない。またダーク油事件でPCBに汚染されたニワトリが、その後どのように処分されたのか明らかにされていない。もちろん生き残ったニワトリの卵は、そのまま人間の体内に移行したものと思われる。体内に一度入ったPCBは排泄されず、排泄されるのは出産によってPCBが妊婦から新生児に移行するときであった。

 カネミ油症事件の真相が明らかになったころ、カネミ油症を飲んだ母親から、皮膚の黒ずんだ赤ちゃんが生まれたことが報道された。PCBは油に溶けやすい特徴があり、体内に入ると脂肪組織に蓄積される。特に胎盤に蓄積されやすく、新生児に移行しやすかった。この事実に人々は大きなショックを受けた。そして皮肉なことに、出産のたびに母親の症状は軽くなった。油症事件の翌昭和44年に被害者から生まれた13人の子供のうち2人は死産、10人は全身が黒色で、その他の異常所見も多くみられた。黒い赤ん坊は成長とともに肌の色が白くなっていったが、これは成長により体内のPCBが希釈されたせいで、身体のPCBが減少したからではなかった。

 長崎県の五島列島の玉之浦は人口4400人の集落であるが、113世帯、309人がカネミ油症の被害者となり、21人の黒い赤ちゃんが誕生した。玉之浦に犠牲者が多く出たのは、この地区の店でカネミオイルを盛んに宣伝し、安い値段でセールを行っていたからである。

 カネミ油症患者の症状は醜く黒ずんだ皮膚症状が主であった。PCBは身体に長時間蓄積され慢性の症状を引き起こしたが、当時は長期的な危険性の認識は乏しかった。PCBは身体全体をむしばみながら、やがて死亡例が続出することになる。

 PCB汚染による被害者は1万4000人に達していたが、カネミ油症の認定患者は症状が著明な1857人だけであった。また事件から5年以内に27人が死亡したが、認定患者であっても救済の手は差し伸べられなかった。そのため患者らが法廷闘争に立ち上がった。

 中毒事件を起こしたPCBは、最近では地球汚染物質としてよく知られているが、当時は危険な物質との認識は少なかった。PCBは電気の絶縁性が高く、不燃性で安定性に優れているため、トランスやコンデンサの絶縁体、熱媒体、塗料、印刷用インキ、複写紙、可塑剤などに広く利用されていた。

 カネミ油症事件を引き起こしたPCBは鐘淵化学工業が製造したものである。そのためカネミ油症の被害者はカネミ倉庫だけでなく鐘淵化学を相手に裁判を行うことになった。鐘淵化学が訴えられたのはPCBの毒性や金属腐食性を知りながら、食品工業に売り込んだ責任を問われたからである。

 鐘淵化学は「自動車や青酸ガスなども危険だが、使用者はそれを周知の上で使っている。使用者が責任を負うべき」として、食用油を製造したカネミ倉庫に責任があると主張した。鐘淵化学はPCBの使用上の注意事項として簡単な説明をしただけであったが、もし「毒性が強いため、加熱用パイプのピンホールのような小さな傷にも注意して使うようにとカネミ倉庫側に警告していれば、恐らく食用油製造にPCBは使わなかった」とカネミ倉庫側は裁判で証言している。通産省はPCBの使用を全面的に禁止することを関係業界に通達。鐘淵化学はPCBの生産を全面中止し、PCBの国内生産は完全に中止となった。

 裁判は民事(損害賠償請求)と刑事(業務上過失傷害)の両面から争われた。このうち民事についは、8件の提訴(個人1件、集団7件)があった。昭和52年、福岡地裁で福岡第1陣訴訟(原告44人)の判決があり、原告の主張をほぼ認め、カネミ、鐘化両社に合わせて7億円の損害賠償の支払いを命じた(国は訴訟の対象外)。

 昭和59年の福岡高裁で小倉第1陣訴訟(原告729人)による控訴審判決では、「食品の安全性に疑問が生じた場合、行政庁は規制する権限を予防的に行使すべき法律上の義務を負う。また農林省担当官がその措置を取っていれば油症拡大は防止できた」として昭和53年の一審判決(福岡地裁小倉支部)を覆し、初めて国の責任を認めた。その上で国に賠償額47億円のうちの30%を払うように命じた。

 しかし昭和61年、福岡高裁の小倉第2陣訴訟(原告344人)の控訴審判決では、福岡高裁判決が認めた国の責任を否定し、それまで4つの判決で認められていた鐘淵化学の責任を否定する判決を出した。

 裁判官によって責任の所在の判断が異なり、損害賠償額も一、二審で違っていたが、事件から19年後の昭和62年3月20日、最高裁で和解が成立。被告側のカネミ倉庫と鐘淵化学が総額107億円の損害賠償の支払いで合意した。鍾淵化学の和解条件は事故の免責と引き換えに、被害者に「見舞金」を支払う内容だった。鍾淵化学に製造物責任はないが、計21億円の見舞金と弁護士費用などを支払うという内容の和解であった。

 刑事事件については、カネミ倉庫の社長と工場長が業務上過失傷害罪で起訴されたが、昭和53年に社長の無罪が確定、57年に工場長の禁固1年6月の判決が確定した。

 PCBと接触した場合、多くは時間とともに症状が改善していくが、カネミ油症患者の症状は変化がなく死亡者が続出した。なぜ症状が改善しないのか、そのことが判明されたのは事件から20年後のことであった。カネミ油症の原因はPCBだけではなく、ポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)も含まれていることが昭和50年に、コプラナーPCBも含まれていることが昭和61年になって明らかになった。

 これらの物質はダイオキシンの一種で、相乗作用によって重篤な症状を起こしたのである。特にPCDFはライスオイル中に2.7ppm含まれ、PCDFの毒性はPCBより強いことから、現在ではPCDFが油症の主要な病因を起こしたとされている。この発見がなされたのは化学分析の進歩によるが、それが分かった時には油症事件はすでに過去の事件となっていた。

 ダイオキシン被害の特徴はその発生の遅延性である。事件から時間が経過するとともに、ダイオキシンの発がん性によりがんで死亡する例が増えていった。