アンプル風邪薬事件

アンプル風邪薬事件 昭和40年(1965年)

 昭和40年代は、日本そのものが若々しい時代だった。団塊の世代は青年となり、若さゆえに政治や人生について議論を交わし、若い労働力は高度経済成長を支えた。国民の生活は豊かになり、国民医療費も経済に連動して膨張し、製薬会社は驚異的な売り上げを誇っていた。医師は高収入で、社会的地位は高く、権威主義がまかり通り、医師にとって40年代はまさに黄金時代であった。

 昭和40年はA型インフルエンザが猛威をふるい、患者数2万6000人、学級閉鎖2378校となった。昭和40年2月11日、インフルエンザが猛威を振るっているさなか、千葉県で農業を営む男性が団体旅行から帰宅後に、アンプル入り風邪薬「強力パブロンアンプル」(大正製薬)を飲み急死した。この事件から3日後、同じ千葉県でアンプル入りの風邪薬を飲んだ老人と15歳の少女が死亡。2月17日、静岡県伊東市の主婦(39)がやはりアンプル入りの風邪薬「エスピレチン」(エスエス製薬)を飲んで死亡した。

 日本各地でアンプル入り風邪薬を飲んで急死する事件が続発し、アンプル入り風邪薬による事件は連日のようにマスコミをにぎわした。新聞が報道しただけで3月4日までに死亡11人、累積死亡数は50人をこえた。大阪府医師会の調査では、アンプル入り風邪薬で異常をきたした患者は半年間で702人、そのうち62人が意識混濁、失神、呼吸困難、痙攣などの症状を示し、死に至らなくても多数の重症例がいた。

 アンプル入り風邪薬は亜細亜製薬の「ベルベ」の発売が最初だった。風邪薬はそれまでは粉末や錠剤であったが、それを水溶性の液体に変わったのである。アンプル入り風邪薬の主成分は解熱鎮痛剤のアミノピリン・スルピリンで、従来の風邪薬と同じで薬理学的にはなんら違いはなかった。アンプル入り風邪薬は注射薬の即効性を狙ったイメージ商品で、製薬会社はインフルエンザの流行に乗り遅れまいとガラスに入ったアンプル風邪薬を盛んに宣伝して増産体制をとった。当時の日本は高度経済成長に沸き、働き続けることが美徳と受け止められていた。仕事が忙しく、風邪ぐらいで休めない雰囲気があり、勤労者にとって薬局の店頭でチュッと1本飲んで風邪が治ればそれに越したことはなかった。

 当時は、科学や医学の進歩を過信し、風邪は風邪薬で、しかも効きそうなアンプル入り風邪薬で治ると思い込んでいた。そのため各製薬会社は、粉末や錠剤の風邪薬をアンプル剤に変更した。アンプル風邪薬がより効果的との証拠は何もなかったが、注射を思わせるアンプルの首を割ってチュッと飲むと、何となく早く効きそうなイメージがあった。これは日本人の注射信仰を利用したものである。

 当時、「モーレツ社員」「ファイトで行こう」が流行語になっていて、風邪をひいたら注射ですぐに治してもらおうとした。高度経済成長の気分の中で「風邪などひいている場合ではない」という雰囲気であった。風邪でも何でも病院に行き、患者は「あの医者の注射はよく効く」、あるいは「注射を1本打ってください」と医師に注文するほどだった。

 アンプル風邪薬事件は、患者の特異体質と簡単に報じられていた。個人的な不幸な出来事ととされていたが、1カ月に11人の被害者が出たことから、マスコミが連日のように事件を報じるようになり、厚生省は重い腰を上げることになった。昭和30年2月19日、厚生省は大正製薬にアンプル入り風邪薬の広告と販売の自粛を要請。だが大正製薬の広報課長は「アンプル入り風邪薬は当社だけで9000万本を製造し、10年の実績をもっている。このような死亡事故は偶然が重なったせいで、厚生省の基準に従って製造したのだから問題はない」とコメントを述べ、厚生省の要請に難色を示した。

 この広報課長の難色発言がマスコミで大きく取り上げられ、アンプル入り風邪薬は社会問題へと発展していった。厚生省は責任が自分たちに及ぶことを恐れ、大正製薬、エスエス製薬に販売中止を再度要請、両社はこれを受け入れることになった。大正製薬は「強力パブロン・強力テルミック」、エスエス製薬は「エスピレチン」などのアンプル入り風邪薬を販売中止とした。

 アンプル風邪薬は販売停止となったが、薬局に置いてあるアンプル風邪薬を回収しなかったため、その後もアンプル風邪薬による死亡例が続発することになる。在庫を抱えた薬局が「在庫一掃大売り出し」を行っていたのだった。

 そのため3月2日、厚生省は「市場からのアンプル入り風邪薬の回収」を日本製薬団体連合会に要請。日本製薬団体連合会は「回収および返品に伴う損失を補う優遇措置」を条件にこれを受け入れた。つまり損害の救済、税制上の優遇、金融上の優遇、薬型変更の承認許可の優遇を条件にアンプル入り風邪薬3000万本を自主回収することになった。

 風邪薬の副作用の大部分はピリンが原因とされているが、厚生省は「患者の体力が弱っている時に、早く治りたい一心から多く飲み過ぎたこと、他の薬剤との併用が原因ではないか」と述べ、悪いのは患者本人であるかのような発言をした。中央薬事審議会は「水溶性のアンプル剤は吸収速度が早いため、血中濃度が急速に上昇し、毒性が強く出たのであろう」と述べ、さらにショック死は「使用者の特異体質も原因」とコメントした。

 アンプル入り風邪薬を製造していた製薬会社は全国で200社で、年間数百万本が生産されていた。アンプル入り風邪薬は製薬会社の稼ぎ頭で、年間売り上げは約100億円とされていた。製薬会社の中には全体の売り上げの半分以上を占める会社もあり、製造中止は製薬会社にとって死活問題となった。

 薬局も大きな打撃であった。当時は医薬品の過剰生産から、薬局の倒産が続出しており、利潤の大きいアンプル入り風邪薬は起死回生の商品だった。風邪薬は10錠100円であったが、アンプル入り風邪薬は1本100円から200円で、40%が薬局の儲けになっていた。薬局の売り上げの2割を占めていた。

 厚生省の対応はかつてないほどの英断と評価されているが、製薬会社は大損害を被ることになった。そのため厚生省は回収が終えた時点で製薬会社を集め、今回の経緯について説明するとともに、損害を与えたことを陳謝している。この製薬会社への遠慮が、後に続くクロロキン網膜症の対応の遅れを作ったとされている。

 この事件の背景には、製薬会社の利益追求があった。製薬会社は病院で処方される医家向け薬剤よりも、薬局で自由に買える大衆薬品にウエイトを置いていた。そのため各製薬会社は新聞、雑誌、テレビ、ラジオを通して誇大広告や過激な広告を繰り返していた。風邪薬には成分の違いはほとんどないので、薬剤の内容よりも薬剤のイメージが販売戦略となり、宣伝が加熱した。

 ところで「くしゃみ3回、ルル3錠」は三共製薬の風邪薬のCMであるが、このCM史上に残るキャッチコピーは昭和30年に作られたもので、三島由紀夫が絶賛したとされている。「くしゃみ3回、ルル3錠」は現在でも使われており、この宣伝によって三共は総合感冒薬市場でトップクラスを確保している。ルルの宣伝は大空真弓、いしだあゆみ、由美かおる、伊東ゆかり、松坂慶子、大竹しのぶ、富田靖子、木村佳乃と受け継がれ、ルルの宣伝に出た女優は大女優になるという伝説が生まれた。

 宣伝が全く逆効果だったのが、昭和39年12月に放映された興和の風邪薬「コルゲンコーワ」のCMだった。「おめえ、ヘソねえじゃねえか」と言いながら、子供が薬局前に置かれたカエルの人形に落書きをするCMは、「子供の言葉遣いが悪い」と批判を受け2カ月で放送打ち切りとなった。

 当時の新聞を見ると、広告の半分近くが医薬品で占められていた。製薬会社は薬品の広告に熱心で、今日でいえば家電製品や自動車と同じように広告を出していた。またテレビのコマーシャルも同じだった。広告産業にとって製薬会社は一番の得意先で、「製薬会社の研究費は売り上げの4.0%であるが、広告費は5.1%」であった。製薬会社は利潤追求にしのぎを削り、イケイケドンドンの営業で、およそ人命にかかわる薬剤を売っているとの意識は乏しかった。

 製薬会社は市販の薬剤に重点を置いていたが、昭和36年に国民皆保険制度が発足すると、患者数が増大して、医家向けの薬剤が急速に伸びていった。昭和30年から45年までの15年間に、製薬会社の売り上げは12.4倍、利潤は22.9倍に伸び、製薬会社は国民皆保険制度、高度経済成長、大衆薬ブーム、さらに薬好きの国民性も加わり驚異的な成長を遂げた。

 アンプル入り風邪薬事件をきっかけに、日本製薬団体連合会は「医薬品広告に関する自主規制」を行い、薬の宣伝が急速に減少することになる。今回、アンプル入り風邪薬が問題となったが、一般的な風邪薬が必ずしも安全とは限らない。風邪薬がスティーブンス・ジョンソン症候群(全身の皮膚がやけどのようにただれる)を引き起こして死亡した例、ショックによる死亡例も報告されている。また大量の風邪薬が死に至ることは、埼玉県本庄市の風邪薬連続保険金殺人事件(平成11年)が証明している。風邪をひいたら薬剤に頼るのではなく、薬剤の助けをかりて休養で治すべきである。