よど号ハイジャック事件

よど号ハイジャック事件 昭和45年(1970年)

 昭和43年からの2年間で、海外では110件の航空機ハイジャック事件が起きていた。しかし、まさか日本でハイジャック事件が起きるとは誰も想像していなかった。よど号ハイジャック事件とは、日本赤軍派学生が起こした日本で初めてのハイジャック事件であった。

 昭和45年3月31日午前7時21分、羽田発福岡行き351便の日本航空ボーイング727ジェット旅客機「よど号」は、乗員7人、乗客131人を乗せ羽田空港を離陸した。当時の航空機には愛称がついていて、その愛称名からこの事件は「よど号ハイジャック事件」と呼ばれるようになった。

 乗員は機長の石田真二(47)、副操縦士の江崎悌一(32)、航空機関士の相原利夫(31)、それに4人のスチュワーデスであった。ほぼ満員の乗客の中には、福岡での日本内科学会に出席する聖路加国際病院名誉院長の日野原重明(58)の姿があった。

 羽田を定刻より10分遅れて離陸したよど号は、2時間後に板付空港(福岡空港)に着陸するはずであった。禁煙のサインが消えるまでは、機内は普段と変わりなかった。

 7時40分、飛行機が富士山の南側を飛行中、突然、赤軍派学生が操縦室に乱入、日本刀を振りかざし飛行機をハイジャックした。当時の空港には金属探知機もボディーチェックもなく、日本刀、ピストル、ダイナマイトなどを簡単に持ち込めた。

 飛行機を乗っ取った赤軍派学生のリーダーは田宮高麿(27、大阪市立大)で、サブ・リーダーは小西隆裕(25、東大)、それに田中義三(21、明冶大)、安部公博(22、関西大)、吉田金太郎(20、元工員)、岡本武(24、京大)、若林盛亮(23、同志社大)、赤木志郎(22、大阪市立大)、神戸市内の高校生(16)の計9人であった。なお岡本武の弟は岡本公三で、昭和47年5月30日に奥平剛士、安田安之とともにイスラエルのテルアビブ空港を襲って26人の死者を出していた。

 当時の日本は赤軍派への捜査が厳しさを増し、赤軍派は反帝国統一戦線の拠点を海外に求め、北朝鮮に活路を見いだそうとしていた。「いかに国境の壁が厚かろうが、再度日本に上陸して武装蜂起を貫徹する」と田宮高麿が声明文で述べたように、彼らは世界同時革命を信じていた。

 赤軍派は乗客の手を縛り所持品を検査し、石田機長に北朝鮮へ行くように命じた。しかし石田機長は、平譲に行くには燃料が足りないと説得し、犯人たちに給油のため福岡行きを承諾させた。午前8時59分、よど号は機動隊230人と警察官1000人が待機する板付空港に着陸。犯人への説得は通用せず、機体を離陸不能にする工作も失敗、政府は初めてのハイジャックに対策を打てずにいた。給油を遅らせるなどして5時間にわたる引き延ばし工作を行うも有効な解決には至らなかった。

 午後1時35分、犯人は病人、女性、子供ら23人を解放すると、よど号は突然北朝鮮に向かって離陸した。石田機長に渡された北朝鮮の地図は中学生が使う地図帳を破り取った簡単なものであった。よど号が福岡空港を飛び立って約35分後、38度線付近で右側に戦闘機の姿が見えた。国籍は不明であったが、操縦席の兵士は親指を下に向け、高度を下げろとサインを出した。石田機長が高度を下げると、管制塔から無線が入り、石田機長は無線に指示されるまま空港に着陸した。

 しかしそこはソウル郊外の金浦(きんぽ)空港だった。金浦空港は北朝鮮らしく偽装されていた。韓国兵は北朝鮮兵の服装を着て、女性はニセの歓迎プラカードを立てて出迎えた。しかし赤軍派は空港内に米軍機を発見、激怒した犯人は「金日成の大きな写真を持ってこい」と言った。もちろん韓国にはそのような写真はなく、韓国側の計画は失敗に終わった。

 翌4月1日、韓国側は朴正煕大統領が陣頭に立ち、「乗客を解放すれば、北朝鮮に行かせる」と説得したが、犯人は態度を硬化させた。朴大統領は人質を北朝鮮にやれば、戻ってこれないと確信していた。韓国では前年12月に大韓航空のYS-11がハイジャックされ、乗客・乗員11人が北朝鮮に抑留されたままになっていた。

 よど号の機内は暑く、食料、水は不足し、自由にトイレに行けない状態が続いた。東京から山村新治郎運輸政務次官(36)がソウルに到着。赤軍派と交渉を始めたが、交渉は難航した。午後になって橋本登美三郎運輸相もソウルに到着。翌2日、山村運輸政務次官が身代わりになることを提案して、ようやく乗客99人全員とスチュワーデス4人が解放された。北朝鮮赤十字は領土内の飛行の安全、乗員の人道的処遇、機体返還を保障すると発表した。

 3日午後6時4分、山村運輸政務次官を乗せたよど号は金浦空港を離陸し、北朝鮮へ向かった。石田機長の手には中学生用の地図しかなく、気象情報も運航情報もなかった。夕闇が迫る中での有視界飛行は危険だった。平壌管制塔からの応答は全くなかったが、石田機長は戦時中、夜間特攻隊の教官だったことから、肉眼で見つけた滑走路に強行着陸した。

 明かりのない暗闇の空港への着陸は成功したが、着陸したのは平譲の美林(ミリム)空港という廃港であった。北朝鮮は、もし誘導を行えば「よど号」を受け入れたことになるので、最初から誘導するつもりはなく、「よど号」はあくまで不法侵入として扱うつもりだった。赤軍派の9人はそのまま北朝鮮に収監された。

 赤軍派の亡命は成功。4月5日、山村新治郎運輸政務次官と乗員3人を乗せたよど号は羽田に到着した。日航は見舞金として金浦空港で降りた乗客に10万円、福岡空港で降りた乗客に5万円を配った。ちなみにこの夏のボーナスは一流企業で平均約15万円であった。

 この事件で山村政務次官は男を上げ、マスコミも「男、山新」と書き立てた。「身代わり新治郎」というレコードまで売り出され、次の衆院選挙ではトップ当選となった。また危険な任務を沈着冷静にこなした石田機長は国民的英雄としてマスコミに取り上げられた。ところが石田機長は女性とのスキャンダルが報道され、日本航空を退社することになる。

 「よど号ハイジャック事件」は1人の負傷者を出すこともなく解決。ハイジャック犯たちは腐敗した資本主義である日本から脱出し、北朝鮮では社会主義朝鮮・金日成のもとで、犯人たちは自由な共同生活を保証されたが、彼らが抱いていた革命戦士としての凱旋帰国の夢は次第に破れ、軍事訓練も帰国も許されなかった。政治思想である主体(チュチェ)思想の講義を受ける日々となった。

 北朝鮮に行った犯人たちの消息は、事件発生から20年近く、日本に届くことはなかった。彼らの生活について伝わってきたのは平成の時代に入ってからで、彼らは貿易会社を設立して平譲市内に外貨ショップを開いていた。また昭和50年、金日成は犯人らに革命持続のため結婚相手を見つけるように指示、各メンバーたちは日本人女性と結婚した。花嫁たちは日本でチュチェ思想と金日成主義の洗礼を受けていた者が多く、東欧の朝鮮大使館経由で入国した女性たちは、彼らとの結婚が目的ではなかったのに、結婚させられた者もいた。

 北朝鮮における赤軍派とその家族への待遇は良かった。衛星放送や新聞などで日本の事情を知ることができた。そして犯人のうち数人は昭和50年頃から海外へ出て、各国の北朝鮮大使館を宿泊場所として北朝鮮の工作員と行動をともにすることになる。スペインのマドリッドが彼らの重要な工作拠点で、10年間にわたって日本人拉致の活動舞台となった。しかし北朝鮮側の活動は西側に徹底的にマークされ、ベルリンの壁の崩壊とともに彼らはヨーロッパの拠点を失い、北朝鮮へ帰ることになった。

 平成4年4月12日夜、よど号事件で男を上げた山村衆院議員は翌日の北朝鮮訪問のために千葉県佐原市の自宅に戻っていた。自民党訪朝団の団長として、金日成主席80周年への参加と「よど号」グループとの再会を楽しみにしていた。しかし深夜、ノイローゼだった次女(24)に自宅で包丁で刺され死亡。次女は判断能力がなかったことから不起訴になったが、その4年後に自殺している。よど号事件の際に父親を羽田空港に出迎えたのは、ほかならぬ彼女であった。

 ハイジャック犯たちはヨーロッパでの活動ができず、平成6年、元高校生はひそかに日本に入国しようとして逮捕され、懲役5年の実刑判決を受けた。翌7年11月には田宮高麿(52)が心臓発作で死亡。平成8年には、田中義三がカンボジアで偽札事件を起こし、4年間の獄中生活を送り日本へ移送され、東京地裁は懲役12年を言い渡した。

 北朝鮮に残された犯人グループは子供の帰国に取り組み、これまで18人の子供のうち14人が帰国しているが、犯人たちの長い漂流の旅は終わっていない。彼らの活動は闇に包まれているが、犯人メンバーたちは次々に病死や事故死などで、北朝鮮に残っているのは小西隆裕、安部公博、若林盛亮、赤木志郎の4人だけとなっている。