志賀潔

【志賀潔】昭和32年(1957年)

 昭和32年1月25日、世界的細菌学者である志賀潔が郷里の宮城県で死去、享年86であった。志賀潔は、明治3年12月18日、仙台藩藩士・佐藤信の4男として生まれ、幼名を直吉といった。明治19年に大学予備門(第1高等学校)に入学、翌20年に母の生家である藩医・志賀家を継ぎ、名前を「志賀潔」と変えた。

 明治29年、東京大学医学部を卒業すると北里柴三郎の伝染病研究所に勤務し、細菌学の研究に従事した。翌30年、日清戦争の直後に下痢を主症状とする赤痢が日本全国で大流行し、患者数9万人、死者2万人以上を出した。赤痢は伝染病であったが、その病原菌はまだ同定されていなかった。

 新入りの助手であった志賀潔は、患者の便を集め、便中の無数の細菌の中から赤痢菌を探しだそうとした。そして赤痢患者の血清を加えると、特異的に凝集する菌を発見したのである。動物実験を重ね、この細菌を赤痢の病原菌として明治30年12月に発表した。

 当時、日本人の医学研究はいくつかの業績をあげていたが、その多くは海外の研究所で行われたもので、国内でなされた世界的業績はこの赤痢菌の発見が最初といえる。志賀潔はドイツの雑誌に赤痢菌の発見を発表し、世界にその名前が知られるようになった。

 赤痢菌は志賀の名をとってシゲラ:Shigellaと学名がつけられ、赤痢菌が出す毒素は「志賀毒素」と名付けられた。志賀潔の赤痢菌発見は、北里柴三郎の指導によるものであったが、赤痢菌の論文には北里の名前は記載されていない。北里は志賀潔の名前を高めるため、自ら陰に隠れのである。

 赤痢は赤痢菌の感染により、高熱、激しい下痢や血便を出し、死に至る病気である。赤痢菌を発見した志賀潔の名前は世界的に広まり、明治34年、志賀はドイツへ留学して、免疫学の創始者エールリヒに細菌学と化学療法を学ぶことになる。


 明治37年、志賀潔はエールリヒとともにアフリカの睡眠病(トリパノソーマ)の治療法を確立する。大正3年に伝染病研究所を辞職すると、新設された北里研究所に入った。大正9年に慶応義塾大学医学部教授、大正14年には京城帝国大学の初代医学部長、後に学長になる。昭和19年に文化勲章、26年に文化功労賞、32年には勲一等瑞宝章を受賞している。戦災により郷里の宮城県で老後を送り、後に仙台市の名誉市民となる。北里柴三郎、野口英世、志賀潔はこの時代の世界的医学者として名前を残している。