饅頭毒殺事件

【饅頭毒殺事件】昭和36年(1961年)

 広島県の因島(いんのしま)は瀬戸内海に浮かぶ静かな島である。この因島で、近親者7人の毒殺を謀った饅頭毒殺事件が起きた。この怪奇事件が発覚したのは、昭和36年1月8日のことである。

 この事件は農業を営む三沢家で、饅頭を食べた芳子(4)ちゃんが急死したことに端を発している。芳子ちゃんは饅頭を食べた直後に苦しみだし、近くの医院に運ばれたが死亡した。医師は変死としたが、結局、芳子ちゃんの死因は心臓麻痺とされ葬式の準備が行われた。ところが弔問客より先に現れたのは警察官であった。病死ではなく変死の疑いとされたのである。出棺は中止になり、芳子ちゃんの遺体は警察の霊安室へ運ばれ家宅捜査が行われた。

 警察が動いたのは、因島区検察庁に「おかしいと評判だ、調べてくれ」と密告の電話が入ったからである。電話は「芳子は病死ではなく毒殺で、数年前から4人の家族が同じように相次いで死亡している」と伝えたのであった。

 芳子ちゃんの死亡は毒殺事件へ発展、芳子ちゃんは司法解剖がなされ、有機リン系薬剤による中毒死であることがわかった。さらに有機リン系の農薬であるパラチオンが検出され、瞳孔の縮瞳、血液中のコリンエステラーゼ低下の所見もパラチオン中毒死の特徴と一致していた。芳子ちゃんの父親M男(32)が同年2月2日に逮捕された。

 M男は逮捕直後に5人を毒殺したことを自供した。M男の二女、三女、M男の兄夫婦、芳子の5人を殺害したと自白したのだった。捜査本部は三沢家の墓を掘り起こし、白骨化した遺体を調べたが、毒物反応は検出できなかった。M男は5人殺しを自白したが、捜査本部が起訴できたのは芳子ちゃん殺しと3人の女性への殺人未遂のみであった。

 昭和43年7月、広島地裁尾道支部はM男に懲役15年の判決を下した。しかし饅頭の入手経路、農薬の仕掛け方、指紋などの物的証拠がなく、自白も矛盾点が多かった。1審から6年後の昭和49年12月10日、広島高裁は自白の信用性を否定し、M男に対し「疑わしきは被告人の利益に」の原則を適用して無罪を言い渡した。

 この事件が起きたのは、まだ封建制の残滓(ざんし)が残っていた昭和30年代のことである。昔の農村にはよくあることで、因島でも近親者同士の内婚がみられていた。道路に沿って長々と続く家並みの中に、濃密な血を分けた複雑な親族関係が営まれていた。M男が親族を次々に殺害した動機は財産目的だったと噂されていた。

 昭和22年に相続法が改正されるまでは、長男が相続する家督相続だった。財産の相続権はそれまでは男子優先、嫡出子優先、年長優先の三原則で、長男がすべてを相続することになっていた。法律が変わっても、農家は田畑の分散をおそれ、事実上長男がすべてを相続する家督相続が行われていた。

 狭い田畑を子供たちに細分化することは、財産を減らし共倒れになりかねなかった。次男としての地位をのろったM男は、兄を殺し財産を独占し、さらに口減らしのために娘たちを次々に毒殺したと噂された。M男は無罪となったが、ではこの狭い因島で饅頭に毒を入れたのは果たして誰なのだろうか。