キーパンチャー病

【キーパンチャー病】昭和37年(1962年)

 昭和37年2月26日、東京都中央区日本橋の野村証券本社ビル5階から女性社員(22)が飛び降り自殺した。この女性は機械計算課に所属し、電気計算機のキーパンチャーをしていた。この事件により職業病としてのキーパンチャー病が世間に知られるようになった。

 当時のコンピューターの性能は、今日のものに比べればけた違いに劣っていて、パンチカードという穴の開いたカードを機械に入れ、その穴を読み取って計算していた。キーパンチャーの仕事はその穴を穿孔機で開けることで、穿孔機の英数字のキーを押してパンチカードに入力していた。

 毎秒3.4回のキータッチが必要で、1日数万タッチないし10万タッチもの重いキーを打っていた。その結果、手指のしびれや痛みを訴え、重度の肩こりを生じさせ、キーパンチャー病を発症させた。

 当時の日本は高度成長期を迎え、金融機関を中心に次々と大型コンピューターが導入されていった。キーパンチャーやタイピストは若い女性のあこがれの職業であったが、キーパンチャーの仕事は肉体疲労だけでなく精神的負担を強いるものであった。

 昭和30年頃からキーパンチャー病が激増し、女性社員の自殺で社会的注目を集めることになった。キーパンチャー病は新しい職業病で、後に頸肩腕症候群と呼ばれるようになった。女性労働者は「むかし紡績、いま金融」といわれ、キーパンチャー病は職業病の花形となった。