三井三池炭鉱爆発事故

三井三池炭鉱爆発事故 昭和38年(1963年)

 福岡県の大牟田市は日本最大の炭坑の街である。終戦後、日本の石炭産業が華やかに発展し、人口20万を超える大牟田市は三池炭鉱から掘り出される石炭を原料とした石炭化学コンビナートとして繁栄していた。

 「月が出た出た、月が出た、三池炭鉱の屋根に出た。あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろう、サノ ヨイヨイ」。この炭鉱節に唄われた大牟田市は炭坑の街であった。

 昭和38年11月9日3時15分頃、大牟田市に突然、大爆発音が響きわたった。三井三池炭鉱で大爆発事故が起きたのである。三井三池炭鉱の三川鉱第1斜坑の坑口から約500メートルの坑道地点で爆発が起こり、坑口からは20メートルを超える火炎と100メートルに及ぶ黒煙が噴き出した。第1斜坑に並行して掘られている第2斜坑も爆風は吹き抜け、坑外の建物の窓枠は吹き飛ばされ、建物の鉄柱がアメのように折れ曲がった。

 坑内では落盤や出水が起こり、坑内の電気、電話、排水ポンプ、通気用の扇風機が止まった。坑内には1220人が入坑していて、一瞬の爆発により死者458人(焼死者20余人)、重軽傷者830人の大惨事となった。熊本大学、久留米大学、九州大学の救護班が現地にかけつけたが負傷者の多くは一酸化炭素(CO)中毒に罹患していた。

 三井三池炭鉱爆発事故は戦後最大の炭坑災害となった。何らかの火花が炭塵(たんじん)に引火し爆発したのである。炭塵とは石炭を掘る際に生じる石炭のちりのことで、炭車の連結器が外れて炭車が暴走し、それが高圧線に触れて火花が生じたのか、あるいは炭車とレールの間に生じた火花が炭塵に引火し爆発を引き起こしたとされている。いずれにせよ炭鉱内にたまった炭塵を取り除いていれば、あるいは水をまいて湿らせておけば、この事故は防げたはずであった。なお爆発事故と同じ日、神奈川県の国鉄東海道線鶴見付近で死者161人、負傷者120人を出す列車事故が起き、この日は「血に塗られた土曜日」と呼ばれている。

 戦後の日本経済に石炭が果たした役割は大きく、石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、貴重なエネルギー源となっていた。三井三池炭鉱は良質の炭層を持ち、日本の石炭の1割弱を占め、日本のエネルギー供給源として貴重な存在であった。

 ところが事故の3年前の昭和35年、日本の「産業エネルギーは石炭から石油へ」と大きく転換、値段の安い石油が石炭不況を招いた。石油から石炭への転換に伴い、三井三池炭鉱は生き残りをかけ6000人を解雇する合理化計画を発表。組合活動家1471人を指名解雇、炭坑のロックアウトを行った。これに対し三池労組は無期限ストに入り激突した。

 従業員1万5000人、282日に及ぶ労働争議は全国から注目され、労働組合は「従来の第1組合」と「会社に協力する第2組合」に分裂、ピケを張る第1組合に第2組合員1600人が襲いかかり200人以上の重軽傷者が出る惨事となった。さらに200人の暴力団が第1組合員に襲いかかり久保清さんが刺殺され、数十人の重軽傷者を出した。

 三池闘争は「総資本と総労働の対決」とされ、さらに安保闘争と結びつき、史上最大規模の労働闘争となった。全国から労働者は応援に駆けつけ、その数は延べ35万人に達した。

 当時の池田内閣は流血の惨事を防止するため、石田博英労働大臣を事態収拾にあたらせ、中央労働委員会の斡旋により終結したが、解決までに282日に及ぶ流血状態になっていた。結局は労働者側の敗北となり合理化計画を受諾することになった。

 1万5000人だった作業員は1万人に減らされ、逆に生産量は日産8000トンから1万5000トンへと増大させた。会社側は炭塵の取り除き作業を11人から1人にしたが、この会社側の合理化が大災害をもたらしたといえる。炭鉱爆発は、「起るべくして起きた炭坑災害」とされたが、国の事故調査委員会は「企業側の責任はなし」とした。

 死者の多くは落盤と一酸化炭素中毒によるものであった。また助かった者や救助隊員にも一酸化炭素中毒の苦しみが待っていた。一酸化炭素は血液中のヘモグロビンと結合すると離れにくいため、体内の酸素供給に支障が生じ、死を免れても脳の機能障害を残すのであった。一酸化炭素中毒による意識不明者23人、意識混乱者42人、極度の記憶障害者126人であった。

 平成9年3月30日、三井石炭鉱業三池鉱業所は閉山となり、100年余にわたる歴史に幕を閉じた。石炭の国内需要はあったが、また石炭が掘り尽くされたわけではないが、海外炭坑の露天堀のコストに太刀打ちできなくなったのである。三井炭坑の労働災害は、明治26年から平成9年まで軽傷以上で37万人に達している。年に3000人以上がけがをするか死亡しており、これほど危険な職業はないのであった。

 現在、日本の炭坑のすべては廃坑になっている。大牟田市では炭鉱なき街の振興のため、テーマパーク「ネイブルランド」を作るが、これが3年で閉鎖している。三井三池炭鉱爆発事故は忘れられようとしているが、一酸化炭素中毒患者30人は現在でも大牟田労災病院に入院している。入院中の中毒患者の平均年齢は77歳で、牟田労災病院は廃院が予定されている。

 三井三池炭鉱爆発事故は、戦後の炭鉱事故で最大の被害者を出したが、これまでに最も大きな炭鉱事故は、大正3年の福岡・方城鉱のガス爆発事故で687人の犠牲者を出している。

 戦後の炭鉱事故で被害者の多い順に記すと、昭和40年6月、 福岡・山野鉱業所のガス爆発で237人が死亡。同56年10月、北海道の夕張・北炭夕張新鉱坑内でガスが噴出、窒息と火災で93人が死亡▽同59年1月、三井三池坑内で火災が発生して83人が死亡▽同36年3月、 福岡・上清の坑内火災で71人が死亡▽同35年9月、福岡・豊州で元寺川が増水し、坑内に水が流入して67人が水死▽同23年6月、福岡・三菱勝田竪のガス爆で62人が死亡▽同31年11月1日、北海道の赤平・雄別茂尻のガス爆発で60人が死亡▽同50年5月、夕張三菱南大夕張のガス爆発で62人が死亡している。

 このように炭鉱災害は犠牲者が多いこと、さらに生存しても一酸化炭素中毒という重篤な後遺症を残すことがより悲惨にしている。