街頭テレビと力道山刺殺事件

街頭テレビと力道山刺殺事件 昭和38年(1963年)

 戦後の荒廃した日本に、日本人としての誇りと勇気を与えてくれた人物として、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹、全米水泳選手権大会で優勝した古橋廣之進(フジヤマのトビウオ)、リンゴの唄の並木路子、天才少女歌手の美空ひばり、そしてプロレスの力道山を挙げることができる。

 彼らは敗戦で打ちひしがれた日本人に、日本人としての誇りとアイデンティティーをもたらした。湯川秀樹を除き、彼らの功績は決して教科書に載るようなものではないが、精神的な面での功績は計り知れず、戦後の日本における精神的功労者といえる。また戦後史において、民衆を熱狂させた彼らの存在を忘れることはできない。その中で力道山はまさに国民的英雄であった。力道山はテレビの時代の始まりと重なり、プロレス興行はテレビによって発展し、テレビもまたプロレスによって普及した。

 昭和28年2月1日、NHKがテレビ放送を開始し、同年8月には日本テレビ放送網(NTV)が初の民間テレビ局として誕生した。早川電機(現・シャープ)から白黒テレビ第1号が発売されたが、テレビの値段は14インチ型で17万5000円だった。当時の大卒の初任給が5000円だったことから、テレビは庶民にとってまさに高嶺の花であった。

 放送開始時のテレビ契約数は全国で866台、受信料は月200円だった。このようにまだテレビが普及する前に、NTVの正力松太郎が考えたのが街頭テレビの設置だった。関東を中心に駅前や広場などの高い柱の上に278台のテレビを設置し、人々は1台のテレビに群がるように集まった。

 新宿の街頭テレビの前には黒山の群衆が集まり、そのため都電が止まるほどであった。10月27日の白井義男のボクシング・フライ級世界タイトルマッチでは、「街頭のみなさん、押し合わないでください」とテレビのアナウンサーが注意するほどであった。

 テレビ中継では、相撲、プロ野球、プロボクシングなどのスポーツ中継が人気を得ていたが、最も人々を熱狂させたのが力道山のプロレス中継であった。東京・有楽町の日本劇場前に設置された1台の街頭テレビに1万人近くが集まり、プロレスのヒーロー力道山の中継に群衆はくぎ付けになった。

 昭和29年2月19日、NHKと日本テレビは「力道山・木村政彦 対 シャープ兄弟」のNWA世界タッグ選手権を東京・蔵前国技館から中継。力道山は柔道から転身した木村政彦7段と組み、米国のシャープ兄弟が持つ世界タッグ選手権に挑戦した。この世界タッグ選手権に数万人の群集が各地の街頭テレビを取り巻いた。なにしろ世界選手権である。人々は歓声を上げて力道山を応援した。

 敗戦で打ちひしがれた民衆、アメリカ占領下に置かれた民衆は、リングでのプロレスをかつての戦争と重ね合わせて声援した。外人レスラーを空手チョップで倒す力道山に人気が集まり、プロレスの大ブームとなった。

 力道山は悪党アメリカ人レスラーの反則を何度も受けながら、反則に動じる様子を見せず、最後に得意の空手チョップで巨漢のアメリカ人レスラーを倒していった。それは悪を退治する正義の味方、勧善懲悪のシナリオであった。鬼畜米英の記憶が残っている民衆にとって、悪役のアメリカ人レスラーをたたきのめす力道山に敗戦の憂さを晴らし、また外人コンプレックスを跳ね返してくれる演出に熱狂した。まさに敗戦のショックからの解放であった。

 力道山はブラウン管の英雄となり、プロレス中継は加熱した。同年12月22日、蔵前国技館で実力日本一をかけた日本選手権試合が行われた。力道山と木村政彦の試合は巌流島の決闘と呼ばれ、「相撲の力道山が勝つか、柔道の木村が勝つか」と日本中が試合に注目した。スポーツ紙だけでなく一般紙もあおり立て、蔵前国技館は1万5000人の観衆で埋まった。

 力道山は怪力で木村を投げ、終始優勢のうちに試合が進められた。ところが13分過ぎ、木村が急所蹴りの反則をしたことから流れが急展した。怒った力道山は容赦なく空手チョップを連発して木村を倒したのだった。木村はテン・カウントでも動くことができず、勝者となった力道山は名実ともに日本のプロレスラーのトップに立った。

 昭和30年は神武景気が始まった年である。プロレスの人気とともにテレビも普及し、街頭テレビの時代は、テレビのある裕福な家に近所の人々が集まる「近隣テレビ時代」となった。32年10月7日、力道山はNWA認定世界ヘビー級チャンピオン・鉄人ルー・テーズと試合を行い、時間切れで引き分けたが、翌年8月27日の世界ヘビー級選手権試合ではルー・テーズを倒している。

 テレビの受像機は値段が下がり、昭和34年4月10日の皇太子明仁親王(現天皇陛下)と正田美智子さま(同皇后陛下)の御成婚パレードのときにはテレビは一気に普及し、どの家にもテレビがある「お茶の間テレビ時代」になった。御成婚パレードにおける沿道の観衆は50万人、テレビの視聴者は1500万人となった。折からのミッチー(美智子さま)ブームと重なり、御成婚パレードを自宅で見ようと、この年の1年だけでテレビ受信契約は200万台となった。

 昭和35年9月10日にはカラーテレビ放送が始まり、テレビの黄金時代を迎えた。テレビが新しい文化、新しい時代をつくろうとしていた。37年3月28日、力道山と吸血鬼ブラッシーの試合が行われ、試合は流血戦となり、テレビを見ていた6人の老人がショック死したほどである。またプロレスは大人だけでなく子供も夢中にさせ、子供たちの間でプロレスごっこが流行した。

 昭和38年5月24日、日本テレビで「WWA世界選手権、ザ・デストロイヤー 対 力道山」が放送された。この試合は日本初のテキサス・デスマッチ・ルール(時間無制限一本勝負)で、歴代5位(64.0%)の視聴率を記録した。試合はデストロイヤーが持つWWA世界ヘビー級選手権がかけられ、28分15秒にわたる大流血死闘の末レフェリーストップで引き分けとなった。

 昭和38年6月5日、プロレスという新しい分野を日本に導入した力道山は東京・赤坂のホテル・オークラで元日航国際線スチュワーデスの田中敬子さん(21)と豪華な結婚式を挙げた。結婚式には有名人のほとんどが出席したほどの豪華さであった。この結婚式が力道山の幸せの頂点であった。結婚式からわずか半年後のことである。絶頂期にあった力道山に突然の悲劇が待っていた。

 昭和38年12月8日午後11時10分頃のことである。力道山は赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」の洗面所前の通路で、住吉連合系暴力団の大日本興業組員・村田勝志(24)に刃渡り13センチの登山ナイフで腹を刺されたのである。村田はトイレに立った力道山に足を踏まれ口論となり、腹を刺したとされている。

 力道山はニュー・ラテン・クォーターの常連で、ナイトクラブでは傍若無人に振る舞っていた。力道山は酒癖が悪く、他の客にけんかを吹っかけたりしていた。村田は力道山にからまれ殴られたので、必死で刺したと述べている。腹を刺された力道山は、タオルで傷を押さえながら赤坂の山王病院に運ばれた。山王病院に向かったのは山王病院の院長と以前から知り合いだったからであるが、山王病院には外科の医師がいなかった。

 そのため聖路加病院の外科医長が呼ばれ手術が行われた。力道山は一時は新聞を読むまでに回復したが、1週間後の15日、腹膜炎から腸閉塞を併発し再手術、手術中にショック状態になり帰らぬ人となった。享年39、無敵の英雄のあっけない最後だった。

 国民的英雄となった力道山は、大正13年11月14日、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で生まれ、本名を金信洛、日本名を百田光浩といった。力道山が朝鮮人であることは力道山の死後に分かったことで、日本人のほとんどは力道山を日本人と思っていた。

 力道山は子供の時から力が強く、体格もよく朝鮮相撲(シルム)の勇者として知られていた。近くに住む日本人警察官にスカウトされ、昭和14年に日本に渡り、二所ノ関部屋に入門し、新入幕から3年で関脇に昇進し、大関間違いなしといわれていた。

 ところが昭和25年、力道山は自宅で突然まげを切り落とし、大相撲の世界と決別した。二所ノ関部屋との意見の対立、朝鮮人としての差別が決別の理由とされている。関脇で相撲を辞めるまでの通算成績は135勝82敗15休で、幕内在位は11場所であった。

 相撲界を去った力道山はタニマチの新田建設会社・新田新作社長の元に身を寄せることになる。ちょうどそのころ、朝鮮国連軍慰問のため東京・両国で米国人プロレスの興行があった。力道山はそれを見てすぐにプロレスラーを目指すことになる。

 プロレス入りを決意すると、新田新作社長の支援を受け、昭和27年にプロレス修行のために渡米。米国では名レフェリーである沖識名(おき・しきな)についてトレーニングと技を学んだ。米国を転戦して300戦295勝5敗という堂々たる成績を残し、さらに空手チョップの技を生み出し、翌年3月6日に帰国した。力道山は「日本プロレス協会」を発足させ、日本人によるプロレス興行のシステムを確立させた。力道山はプロレスの興行師としてらつ腕を振るった。

 プロレスはいわゆる純粋なスポーツではなく、ショー的要素が大きかった。そのためアメリカではマット・ショー(mat show)と呼ばれ、プロレスは勝敗だけでなく、演技力が評価されるビジネスとなっていた。力道山は世界から商売になるレスラーを日本に招待し、興行を成功させていった。

 力道山を刺殺した村田勝志は1審で12年、2審で8年、最高裁で懲役7年の判決を言い渡され刑に服した。事件当日、村田の所属する住吉連合系のトップと、力道山に近い東声会の兄貴分である山口組の田岡一雄との間で話し合いが持たれ事なきを得ている。

 村田は服役後、村田組の組長として都内に事務所を構えたが、毎年、力道山の命日の翌日に人目を避け、力道山が眠る大田区・池上本門寺に参っている。村田は世界一強い力道山を殺害したとする周囲のおだてに乗らず、国民的英雄を殺傷した後悔の念がより強かった。

 力道山刺殺事件の裁判で、力道山を手術したという医師と麻酔を担当した医師が証人として出廷している。手術した医師は、手術中に麻酔薬を投与したら血圧が下がってショック状態になり死亡したと証言した。麻酔医は麻酔薬を通常の倍くらい使ったと証言したが、その証拠であるカルテは提出されなかった。

 平成5年、岐阜大学医学部の土肥修司教授が著書「麻酔と蘇生」(中央公論社)を出版。この中で力道山の死因について、「力道山の死は出血でもショックでもなく、麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したから」と書いている。

 麻酔医は気管内挿管のときに筋弛緩薬を用いるが、「麻酔医が気管内挿管に失敗したため力道山は呼吸ができず、無酸素状態となり死亡した」としている。筋弛緩剤は気管内挿管時に、身体の筋肉を弛緩させる薬剤である。全身麻酔を必要とする手術の場合、筋弛緩剤を投与して挿管チューブを気道に入れ、人工呼吸を行うのが一般的である。土肥教授によれば、力道山は筋弛緩剤によって筋肉は弛緩したが、首が太いため気道が広がらずチューブの挿入に失敗したとしている。土肥教授は力道山の手術について当時の関係者から事情を聴き、専門医として調査結果を発表したのだった。

 平成15年7月、力道山夫人の田中敬子が「夫・力道山の慟哭(双葉社)」を出版している。力道山は日本プロレスの父であり、世界の16文・ジャイアント馬場、燃える闘魂・アントニオ猪木の師匠としても有名である。