美空ひばり塩酸事件

美空ひばり塩酸事件 昭和32年(1957年)

 昭和32年1月13日午後9時40分頃、正月公演中の東京・浅草の国際劇場で事件が起きた。当時、人気絶頂の美空ひばり(19、本名・加藤和枝)が舞台の袖で、「花吹雪おしどり絵巻」に出るために出番を待っていると、突然、客席からポニーテールの女性ファンが舞台にかけ上がり、美空ひばりの顔をめがけて塩酸の入った瓶を投げつけた。

 近くにいた人が、すぐに防火用水の水を美空ひばりに浴びせ、順天堂医院にかつぎこんだ。美空ひばりは顔の右半分、ドレスの上から胸、背中に塩酸をかけられ、全治3週間の火傷を負った。付添人も全治1週間の火傷を負ったが、美空ひばりは、とっさに水をかける周囲の機転、舞台用の厚化粧のため顔面の火傷は軽症ですんだ。

 近くにいたカメラマンが塩酸をかけた女性をその場で取り押さえ、女性は浅草署に連行された。犯人の女性は口も利けないほど興奮していたが、山形県米沢市の出身で、美空ひばりと同じ19歳であった。女性の家は貧しく、中学を卒業すると地元の繊維工場で女子工員をしていたが、華やかな都会にあこがれて上京、板橋区の会社重役の女中として働いていた。事件の2か月前に奉公先を飛び出し、都内を点々としていた。

 女性は美空ひばりの大ファンで、映画は何度も見ていて、劇場にも通うほどであった。美空ひばりに何度も面会を申し込んだが相手にされず、募った思いが恨みに変わったのである。華やかな美空ひばりに、自分とあまりにも違う境遇に嫉妬心が重なったのであった。

 バッグに塩酸2合の入った薬瓶を忍ばせ、「美空ひばりちゃんに夢中になっている。あの美しい顔、にくらしいほど醜い顔にしてみたい」と書かれたメモが入っていた。被害者となった美空ひばりは、記者会見で、この犯人の女性をかばう発言をしている。

 この年は、芸能界で同じような事件が頻発した。2月27日には、東京都世田谷区の京マチ子宅に「13万5000円を持ってこい。警察に知らせると硫酸をぶっかけ、ダイナマイトで自動車ごと吹っ飛ばす」という脅迫状が届いた。京マチ子に似た女優が現金を持って指定場所で待っていると、法政大学1年生(19)と店員(19)が現れ、その場で逮捕された。

 さらに3月1日には、神奈川県横須賀市の無職少年(16)が東京・品川駅で無賃乗車で捕まった。所持品を調べるとナイフを持っていて、少年は島倉千代子を殺すつもりだったと自供した。少年は島倉千代子に何度も面会を求めたが断られ、この恨みから殺害を計画して上京したのだった。昭和29年にデビューした島倉千代子は「この世の花」の歌で人気を得ていた。

 それまでの芸能人は、庶民とはかけはなれた存在であった。スターは映画館で見るもので、庶民にとって別世界の人だった。それがテレビの普及によって芸能人が身近になったことがこのような事件を生んだ。芸能人が一般人から障害を受けた事件は、戦後では山口組組員による鶴田浩二殴打事件(昭和28年1月6日)、こまどり姉妹刺傷事件(昭和41年5月5日)がある。

 美空ひばりは、いうまでもなく戦後最大のスーパースターである。幼時から歌が大好きで、並外れた歌唱力から天才少女歌手といわれた。NHK素人のど自慢大会に出場、「悲しき竹笛」を歌うが、鐘が鳴らず落選となる。歌がうますぎて子供らしくないというのが落選の理由だった。

 昭和21年9月、地元の横浜市磯子区の映画館「アテネ劇場」を借り切って3日間の興行を行う。これが美空ひばり9歳の初舞台で、これが評判となり横浜国際劇場でのデビューとなった。わずか10歳の少女は、岡晴夫の「港シャンソン」、並木路子の「リンゴの唄」などを大人顔負けの歌唱力で歌い、2000人の観衆を驚かした。13歳のときに出演した初映画「悲しい口笛」は、主題歌とともに爆発的なヒットとなった。

 戦後の混乱と暗い世相の中で大衆は娯楽を求めていた。国民は失意のなかで美空ひばりの歌に元気づけられ勇気をもらった。横浜の魚屋の娘からスターになった美空ひばりは、自分たち庶民の代表で、打ちひしがれた日本に夢と希望を与えてくれた。出演した映画「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ園の少女」「あの丘越えて」は大ヒットし、主題歌もヒットした。さらに江利チエミ、雪村いづみとともに三人娘と呼ばれ活躍した。

 美空ひばりは大スターとなり、映画、舞台に活躍、歌謡界の女王として君臨することになった。比類ない歌唱力で、戦後の歌謡界に大きな足跡を残した。美空ひばりのヒット曲は多数あるが、代表的な曲として「柔(昭和40年)」「悲しい酒(昭和41年)」「川の流れのように(平成元年)」などがある。

 美空ひばりの人生は栄光に満ちていたが、その私生活は苦悩の連続だった。小林旭との離婚、身内の不祥事と死別、これらを暗示したのが最初に襲われた塩酸事件であった。塩酸事件をきっかけに、美空ひばりと山口組・田岡一雄組長との結びつきが強くなり、田岡組長は地方公演でのトラブル防止や護衛などで尽力することになった。

 昭和62年4月、美空ひばりは全国ツアーをスタートするが、両側大腿骨骨頭壊死と肝硬変の悪化のため、済生会福岡総合病院に入院。マスコミは再起不能と報じたが、翌63年4月11日、新装となった東京ドームのこけら落としで「不死鳥コンサート」を成功させ、奇跡のカムバックを果たした。5万人の観客が見守るなか、「不死鳥・美空ひばり」は歌い続けた。さらに全国13カ所で公演を行い、いずれも満員御礼であったが、病魔が美空ひばりを蝕んでいた。

 平成元年2月の小倉公演での「さようならの向こうに」が最後の歌となった。平成元年3月頃から呼吸困難が強くなり歌えなくなった。病名は間質性肺炎で、病状が悪化し同年6月24日、順天堂大学病院で美空ひばりは52歳の若さで帰らぬ人となった。

 戦後の何もなかった時代、日本人の心を歌い続けた美空ひばりはその名前の通り、青空を高く飛び、心の太陽として多くの人々とともに歩んできた。多くの国民は永遠の歌姫の死去に涙を流した。歌謡界の女王といわれた美空ひばりは、昭和という時代を駆け抜けるように歌い続け、自分の人生だけでなく昭和という時代の幕を引いた。20本以上の追悼番組が放映され、日本政府はその死を悼み、女性として初めての国民栄誉賞を追贈した。