病院スト

病院スト 昭和35年(1960年)

 昭和35年11月1日、東京女子医大病院、東邦医大病院、北里研究所病院など東京医労連に属する7つの病院が第1波の病院ストをおこなった。病院の正門には鉢巻きをした看護婦たちがピケを張り、生活の困窮を訴えた。東京都は事態収拾のため斡旋にのりだすも失敗、11月8日には第2波の病院スト突入となった。

 東京17カ所の病院が最低賃金1万円などの要求を掲げてのストであった。さらに11月25日には全日赤労連が参加し、病院ストは全国31の病院に波及していった。

 病院ストの中心は看護婦たちであった。この人命を預かる病院の闘争は、国民の強い関心を引いた。病院ではストをしている看護婦の代わりに、院長や事務長などの管理者が食事の配膳に走り回る風景が見られた。12月27日には、日本医療労協に賛同して全国約130の病院がストを決行した。

 この病院ストは、「白衣の天使たちの人権スト」といわれた。生活の困窮を訴える単純な経済ストで、看護婦の給料が安過ぎることが原因であった。看護婦たちは看護婦寮に押し込められ、何の贅沢もしていないのに給料が残らない状態であった。看護婦の給料は他の女性の職業に比べ安く、低賃金に加え重労働を強いられていた。国立病院の看護婦は国家公務員なので、ある程度の給料をもらえたが、日赤病院の看護婦は国立病院の看護婦より初任給で2割安く、10年目の看護婦で3割安の給料であった。私立病院の看護婦の給料はさらに安かった。

 看護婦の低賃金は、看護婦にナイチンゲール精神や博愛の精神を楯に押しつけ、生活苦を強いらせてきたからである。看護婦の多くは概して家が貧しかったが、向学心に燃え、奉仕の精神を持っていたが、それでも我慢には限界があった。

 病院の壁や柱には赤や黄色のビラが張られ、ビラには低賃金と最悪の労働条件を押し付けられた看護婦の怒りが書かれていた。ビラには、「12時間連続勤務を1度やってみなさい」「ナイチンゲールもかすみを食っては生きて行けない」「全寮制反対、格子なきロウゴク」「私たちも人間です」など、怒りに満ちた文面で埋まっていた。平均月収1万4000円の看護婦は、3000円から7000円のベースアップと看護婦の増員を求めて立ち上がったのである。

 病院の前に白衣の天使たちが集まり、労働歌を合唱し、要求貫徹を誓って気勢を上げた。病院ストは、看護婦ばかりでなく、薬剤師やレントゲン技師などの職員も立ち上がった。彼らは国家試験に合格し、特殊技術者としての誇りを持っていたが、病院のわき役に置かれている不満があった。

 白衣を着た職員が宣伝カーを先頭にデモ行進を行った。ストに参加した主な組合は東京地方医労連(51組合、5500人)、全日赤(50支部、7000人)、全労災(21病院、4000人)、健保労連(24病院、2300人)、全医労(195支部、2万5000人)であった。昭和35年は安保闘争の年で組合の団結は強かった。

 一方、病院に勤務する医師の給料も低賃金で、国家公務員の給料よりも安かったが、医師はアルバイトで生活費を稼ぐことができ、不満はあったが爆発するほどではなかった。病院から給料の出ない無給医師でも、病院で患者を診て勉強させてもらっている意識が強かった。医師の多くは経営者側の立場で、看護婦たちの病院ストに参加する者は少なかった。

 病院ストの矢面に立たされた病院経営者は、看護婦の給料が安いことを十分に承知していたが、国レベルで医療費を値上げしない限り改善は望めなかった。看護婦の給料を上げたくても、病院の人件費は40%を超え、看護婦の給料を上げるだけの財源がなかった。

 日本病院協会は、「病院争議は現行の医療報酬が適正を欠くため、病院財政に未曾有の赤字が生じていることが原因で、当面の危機を克服するため診療報酬の値上げを講じられたい」と中山マサ厚生大臣に訴えた。

 同じ医療団体である日本医師会は、最初は病院ストには「我関せず」の第三者的立場を取っていた。日本医師会は開業医の利害を代表する団体で、そのため日本病院協会と対立する立場にあった。同じ医療行為でも、診療報酬は開業医と病院では異なり、病院には甲表、開業医向けには乙表、この二本立ての診療報酬で医療費が支払われていた。そのため日本医師会と日本病院協会には感情的な対立があった。

 病院ストが深刻化すると、日本医師会は傍観的な立場から一転して、大幅な医療費値上げ、保険制度の抜本的検討が必要と主張するようになった。一方、医療費を支払う側の健康保険組合や日経連は医療費値上げに反対した。それは医療費の値上げは被保険者の負担を増大させ、保険財政を悪化させるからである。労働省は「病院という公益事業でのストは許されない」と述べるだけであった。

 このように各団体の利害が入り乱れ、病院ストは政治問題へと発展していった。厚生省は戦後から一貫した医療政策がなく、この問題を解決できるほどの政治力はなかった。厚生大臣は伴食大臣と呼ばれ、大臣のポストのなかで最も軽いものであった。厚生大臣が代わるたびに武見太郎医師会長の政治力に振り回されていたが、当時の中山マサ厚生大臣も同様であった。池田内閣の紅一点である中山厚生大臣は、「病院ストと医療費値上げは直接関係ない」と逃げの声明を出し責任回避に終始した。厚生事務次官は「ほかの産業でストが起きたら、すぐに国庫補助をよこせ、というのと同じようにおかしな話である」と述べた。

 政府は、医療費を値上げすれば国家財政が苦しくなることを十分に承知していた。しかも選挙を控え、容易に医療費値上げの結論を出せないでいた。結局、大平正芳官房長官と高田正巳厚生事務次官が協議し、次年度の医療費引き上げを決め、病院ストは中止された。病院ストは日本の医療行政、病院経営の不合理、医療関係者の労働条件などの問題を残したまま表面上解決した。