東京オリンピックの光と陰

東京オリンピックの光と陰 昭和39年(1964年)

 昭和39年9月5日に名神高速道が全線開通、10月1日には東海道新幹線が営業、国民は戦後最大のスポーツの祭典「東京オリンピック」の開催を待ち望んでいた。10月10日、7万5000人の大観衆が国立競技場を埋め尽くし、全国民の熱き想いとともに東京オリンピックが華々しく開幕した。世界中から人種を越えた7500人が集まり、10月24日の閉会式までの15日間、163種目の戦いに多くの日本人は胸を熱くした。

 日本に初の金メダルをもたらしたのは、重量挙げフェザー級の三宅義信だった。152センチの「小さな巨人」三宅義信が表彰台で金メダルを高く差し上げた。次に施設の子として育った遠藤幸夫が男子体操で総合優勝を果たした。女子バレーボールでは「東洋の魔女」が宿敵ソ連を破り、その瞬間、魔女たちは抱き合い涙を流した。大松監督の「黙ってオレについてこい」は流行語となった。

 外人選手の活躍も感動的だった。女子体操の女王・チャスラフスカ(チェコスロバキア)の華麗な演技は世界を魅了し、柔道の無差別級で優勝したヘーシンク(オランダ)の勇姿も思い起こすことができる。

 日本の355人の選手たちは感動的なドラマを作りあげ、日本は金メダル16、銀メダル5、銅メダル8を獲得、日本の力を世界に示す成績を上げた。東京オリンピックはスポーツの祭典であったが、戦後復興の集大成でもあった。

 東京オリンピックの最終日の10月21日、最期を飾る男子マラソンが行われた。前回のローマオリンピックで圧倒的な強さで優勝したアベベ(エチオピア)が優勝候補であった。イタリアはかつてエチオピアを侵略したことから、ローマでの優勝を「アベベが宿怨を晴らした」とマスコミは興奮した。アベベは裸足で走ったことから「裸足の王者」と呼ばれ、また黙々と走る姿は「走る哲人」とも呼ばれた。アベベをはじめとした強豪を迎え撃つ日本選手は円谷(つぶらや)幸吉、君原健二、寺沢徹の3人であった。国立競技場には7万4500人が集まり、コースとなった甲州街道では190万人が声援を送った。

 午後1時に国立競技場からランナーが一斉にスタート、レースは驚異的なハイペースで展開された。日本の作戦は円谷幸吉が飛ばし、優勝候補の君原を引っ張ることであった。折り返し地点ではアベベが先頭で通過し、円谷は5位の通過だった。

 テレビでは圧倒的強さで黙々と走るアベベを映すばかりで、日本人入賞の期待は薄れていた。観衆の関心は2位以下の選手は誰なのかだった。しかしゼッケン77の円谷幸吉は30キロでクラーク(オーストラリア)を抜き、40キロでホーガンを抜き、国立競技場の南門から2位で走り込んできた。円谷幸吉の登場にスタンドの6万人の観衆は大歓声を上げた。

 だがこの大歓声はすぐに悲鳴に近い声援に変わった。円谷の15メートル後ろからヒートリー(イギリス)が迫ってきたからである。誰もが祈り、叫び、もどかしさの渦となった。円谷は苦しそうに首を振りながら逃げ切ろうとするが限界だった。ゴール200メートル手前でヒートリーに抜かれ、円谷は惜しくも3位でゴール。全力を出しきった円谷はよろめくように芝生に倒れ込んだ。

 アベベの優勝タイムは2時間11分22秒8で世界新記録だった。円谷幸吉は無念にもゴール前で逆転されたが、自己記録を2分短縮する堂々の銅メダルであった。日本陸上で唯一の「日の丸」を国立競技場に揚げ、体調を崩した君原健二は屈辱の8位であった。

 円谷幸吉は昭和15年に福島県で生まれ、須賀川高校では陸上部に所属していた。高校時代は平凡なランナーだったが、高校を卒業して陸上自衛隊に入隊すると、長距離ランナーとして頭角を現してきた。

 昭和37年、円谷幸吉はニュージーランドで開催された2万メートルで世界新記録を樹立。不振にあえぐ日本陸上界にとって久しぶりの快挙だった。円谷は一躍天才ランナーと期待された。円谷幸吉には東北人特有の粘りと闘志があった。合宿中は誰よりも早く起きて練習を行った。

 東京オリンピックが終わり、次のメキシコオリンピックが近づいてきた。円谷幸吉には以前から交際していた地元の恋人がいた。結婚の日取りまで決まっていたが、自衛隊体育学校の校長はマラソンの練習に支障をきたすと結婚に反対した。円谷は次回のオリンピックを目指す自衛隊の宝だった。円谷は恋人に結婚の延期を告げたが、恋人は円谷の自宅を訪れ、円谷が贈ったプレゼントが詰まった段ボール箱を玄関先に置いて去っていった。恋人は翌42年の暮れに、別人のもとに嫁いでいった。

 昭和43年1月、久しぶりに郷里で正月を迎えた円谷幸吉は、兄に「もう走れない」と言葉を残し、同月9日、東京の自衛隊体育学校の宿舎に戻ると、頸動脈をカミソリで切って自殺した。享年27であった。遺体の側にそばに置かれた両親への遺書には、まじめな青年の心情が書かれていた。

 「父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切って走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」

 円谷幸吉は競技者の心臓ともいえるアキレス腱を傷めていた。マラソンは孤独な戦いである。円谷ほどの粘りと闘志があっても、国民の期待がプレッシャーとなり、自衛隊の金メダル至上主義の重圧に勝てなかったのである。ひたむきな性格が、オリンピックという栄光の陰で悲劇をつくった。銅メダル獲得という英雄的な行為、逆転負けという悲劇的な敗北、これらが円谷幸吉の人生を変えたのである。もし円谷がもっと平凡な成績であったならばこの悲劇は起きなかったであろう。

 東京オリンピックで屈辱の8位に終わった君原健二は引退を決意していたが、円谷の死を知ると、再び陸上のトラックに舞い戻ってきた。円谷のいないメキシコオリンピックで、「円谷のために走る」と心に誓い、銀メダルを獲得したのである。

 現在、須賀川市の生家は円谷幸吉記念館として公開されている。また須賀川市では毎年11月第2日曜日に円谷幸吉メモリアルマラソン大会を開催し、君原健二は毎年参加している。一方、マラソンの帝王アベベは交通事故で半身不随になり、昭和48年に死亡している。

 東京オリンピックの陸上競技の入賞者は、円谷と女子80メートルハードル5位の依田郁子の2人だけだった。はちまき姿の依田郁子は優勝の期待を背負っていたが、期待が重すぎたのか5位に終わっている。その依田郁子も昭和58年10月14日に茨城県豊里町の自宅で自殺している。また柔道重量級で金メダルを取った猪熊功は、後に建設会社の社長になるも、経営不振から平成13年に自らの生涯を閉じている。