昭和30年代

昭和30年代

 終戦から10年後の昭和30年、日本の鉱工業生産は昭和10年の水準を超え、高度経済成長がまさに始まろうとしていた。昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言したように、日本は急速に復興を遂げ、神武景気を皮切りに、岩戸景気、いざなぎ景気と経済成長を遂げ、輸出による外貨獲得、設備投資による生産の増大、インフラの整備、労働賃金の上昇、農業の近代化、これらが相乗的に購買力を高め日本の経済は拡大していった。

 昭和20年代の飢餓と極貧の時代から、人々はたくましく這い上がり、庶民の生活は向上した。工場の煙突は生活の豊かさを示し、原子力は鉄腕アトムのごとく科学の象徴と捉えられ、店頭には「三種の神器」と呼ばれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫が並びはじめ、日常生活は落ち着きを取り戻した。極貧からつつましい生活へ、さらには消費生活へと次第に変わりはじめていった。昭和33年に東京タワーが建設され、昭和39年の東京オリンピックへ向け、高速道路や新幹線が整備され、新築ビルが街並みを競うように変えていった。

 昭和30年代は政治にも大きな変化があり、自由党と日本民主党が合併して自由民主党となり、社会党も左派と右派が合併して日本社会党となった。いわゆる55年体制が発足し、両者は対立しながら60年安保闘争を迎えることになる。

 昭和27年4月にサンフランシスコ講和条約が公布され、日本は独立国と認められたが、同時に日米安全保障条約により「アメリカ軍は、日本と東アジアの安全保障のため日本に駐留する」ことになった。60年安保はその条約をさらに踏み込んだもので、アメリカは日本に「基地の提供だけでなく、日米共同防衛」を求め、このことから日本がアメリカ側の一部として戦争に巻き込まれる可能性が出てきた。そのため非武装中立を主張する日本社会党、アメリカとの軍事同盟と批判する労働組合や学生が中心になり安保反対運動が高まった。一般国民も元A級戦犯だった岸信介首相の強硬なやり方への反発から、安保反対闘争は全国で吹き荒れ、安保阻止統一行動に560万人が参加し、国会議事堂は33万人のデモ隊に囲まれ、群衆は国会に突入しようとして警察と衝突、樺美智子さんが死亡した。

 日米安保条約で日本の民主主義を守れるのか、それとも日本が再び戦争に巻き込まれるのか、資本主義か社会主義か、あるいは永世中立国か、この選択は日本の主権、国益、将来に関わる重大事であった。世界の資本主義陣営と共産主義陣営に挟まれ、日本の主軸をどこに置くかの判断であった。しかし岸信介首相は「声なき声を聞け」と覚悟を示し、昭和35年6月23日、安保条約は自然成立。この60年安保闘争が国民的規模の最後の政治闘争となり、その後、国民の関心は「政治から生活の豊かさ」に変わっていった。

 昭和35年に池田内閣は所得倍増計画を発表し、10年で達成するはずの所得倍増を7年で達成。戦後のベビーブームに生まれた団塊の世代は「金の卵」と呼ばれ、田舎から列車に乗り、都市部の中小企業に集団就職した。街は若い躍動感と活気に溢れ、彼らの労働力が日本経済を支えた。東京都内の自動車が100万台を突破、国民は政治から経済へ、政治から生活の豊かさに関心が移り、その象徴として消費ブーム、レジャーブームが到来した。

 昭和34年に皇太子殿下と正田美智子様がご結婚し、テレビが急速に普及。テレビの普及がそれまでの生活を大きく変えた。駄菓子屋に群がっていた子供は、「おばけのQ太郎」や「ひょこりひょうたん島」に興奮し、巨人、大鵬、玉子焼きで生き生きとしていた。若者は流行歌を口ずさみ、貧しくとも束縛されない自由があった。若い女性はロカビリーに夢中になり、「名犬ラッシー」にみる豊かな生活に憧れた。サラリーマンは植木等の「無責任時代」とパチンコで憂さを晴らし、それでいて真面目に働いた。戦前を忘れたように、国民の多くが家族に幸福を求め、家族のそれぞれがジャパン・ドリームを見ていた。