日本医師会長に武見太郎

日本医師会長に武見太郎 昭和31年(1956年)

 昭和32年4月14日、日本医師会の会長に武見太郎が選出された。武見太郎は昭和25年から田宮猛雄・日本医師会長の下で副会長の役職についていたが、役員選挙で第6代の会長に選任された。「喧嘩太郎」の異名を持つ武見太郎は、以後13期、25年間にわたり日本医師会長として厚生省を含めた日本の医療全体に大きな影響を及ぼした。

 日本の医療、日本医師会は、良くも悪しくもこの強い個性の武見太郎によって築き上げられた。日本のあらゆる組織において25年間という長期間にわたりトップの座に居続けた人物は、武見太郎、池田大作、笹川良一くらいである。もちろん選挙という洗礼を受けながらトップの座にいたのは武見太郎ただひとりである。

 喧嘩太郎の異名は、日本医師会長として常に厚生省に難題を吹きかけ、けんかを売っていたからである。このあだ名について、武見太郎は「日本医師会の主張は決して難題ではなく、日本医師会が正しい針路を示しているのに厚生官僚が無能だったから」といっている。喧嘩太郎の異名の通り、武見の言動には常に凄みがあった。それは官僚だけでなく、マスコミへも同様であった。武見は自分の医療観を持ち、他人の力を借りず、自力で日本の医療問題を解決しようとした。医療について信念を持つ者による正面突破戦術であった。

 明治37年3月7日、武見太郎は京都で生まれている。生後間もなく東京に移り、開成中学から慶応普通部を経て慶応医学部に進学する。昭和5年に慶応大学医学部を卒業すると内科を専攻。武見太郎は学問が好きであったが、古い封建的な医局制度に反発し、西野忠次郎・主任教授と対立した。

 医学部長が仲裁に入ったが、武見太郎の意志は固く、昭和12年に「学問上の見解を異にする」と辞表を書き医局を飛び出した。武見太郎は慶応医学部の8回生だったが、それをもじって「厄介生」と言った教授がいた。このように武見太郎は、日本医師会長になる前から反骨精神を持ち合わせていた。そのため当時としては、博士号を持たない珍しい医師であった。武見は博士号取得をあきらめていたが、学問への探求心は強く、慶応を飛び出すと仁科芳雄が所長を務める理化学研究所に入所している。

 仁科芳雄は世界的な原子物理学者である。武見太郎は封建的な性格と誤解されやすいが、むしろ学究的で封建制に対立する性格を持っていた。理化学研究所では湯川秀樹、朝永振一郎など一流の学者が最先端の研究を行い、武見太郎は科学者として一流の雰囲気を味わうことになる。理化学研究所では原子物理学の医学応用について基礎研究を行った。

 その後、昭和14年4月、銀座・教文館ビルの3階に武見診療所を開設し、開業医としての生活を送りながら理化学研究所で研究を続けた。理化学研究所での研究は、敗戦によってGHQが原子物理学の研究を禁止するまで続けられた。

 開業医としての武見太郎は一貫して自由診療を貫き、診療収入は患者の自由意思に任せていた。待合室には「謝礼はご随意、お志しでけっこうです」「現役の大将、大臣と老人、急患の方はすぐに診察します」と書かれた張り紙が掲げられていた。日本のほとんどの医師は、国が決めた診療報酬で診察料を取っていたが、日本医師会長である武見太郎は最後まで自由診療を貫いた。

 武見太郎の特徴は、人望により幅広い文化人や政治家との交流を持っていたことである。慶応大学時代、岩波書店の創始者・岩波茂雄の病気を治してから、岩波ルートで文化人との交流があった。幸田露伴の最後を看取ったのも武見であった。

 政治家との交流としては、大久保利通の息子・大久保利賢の夫人を診察したことから、当時の内務大臣・牧野伸顕の主治医となり、牧野の引き合いで多くの政治家と交流を深めた。武見診療所には、近衛文麿首相も診察を受けにきていた。このように人脈を広げることができたのは、有能な医師としての資質だけでなく、武見特有の人間的魅力があったからである。

 武見太郎が37歳の時、牧野伸顕との交流から伸顕の孫娘・秋月英子と結婚。秋月英子が吉田茂夫人の姪にあたることから、武見太郎は吉田の親族となり、吉田との関係を深めることになる。吉田と武見は互いに気が合うらしく、吉田が総理大臣になると、武見は吉田の密使となって組閣の舞台裏で活躍した。

 昭和25年に東大教授・柿沼昊作の推薦により、武見太郎と榊原亨が日本医師会の副会長に推挙された。その時の日本医師会長は田宮猛雄で、田宮は東大医学部長を退職したばかりの有名な学者で、榊原は日本で最初に心臓の手術をした医師である。そのため会長の田宮は日本医師会長として象徴的な役をこなし、政治、行政などの実務交渉は武見が中心に行うことになった。

 武見太郎はまず、日本の医療の実情を知らないGHQとしばしば対立した。サムス準将は「日本は戦勝国の医療政策を受け入れるべき」と日本医師会に脅しをかけたが、武見は「日本が負けたのは軍人が負けたからで、医者が負けたわけではない」と言い、これに激しく抵抗した。そのためGHQは、意に添わない日本医師会執行部を代えるように厚生大臣に要求、武見を初めとした執行部は総辞職となった。

 昭和32年4月、武見太郎は52歳で日本医師会長に選出されると、喧嘩太郎の本領を十分に発揮した。武見太郎は、「自由社会に生きる医師集団が官僚に統制されてはいけない」と考えていたが、国民皆保険制度は避けられない流れとして受け止めていた。そのため彼の手腕は、医師として古き良き時代の自由診療を理想としながらも、現実には国家による統制医療のなかで、いかに医師の地位を高めるかに向けられていた。武見が果たした役割は、一貫して開業医の利権を守るための診療報酬の引き上げだった。

 喧嘩太郎のあだ名の通り、攻撃的な態度で厚生行政に日本医師会の意見を反映させた。強烈な個性を持った武見太郎の異名は喧嘩太郎ばかりではなく、「ワンマン」「厚相殺し」「日本医師会のドン」などさまざまであった。武見太郎は吉田茂などの政治家との交流が深く、また人脈が広いことから、日本医師会長に選出された後も、厚生省や厚生大臣を交渉相手とせず、その頭越しに自民党のトップと交渉して政治力を発揮した。

 厚生大臣を「医療の何たるかを知らない輩(やから)」と決めつけ、厚生官僚などは眼中になかった。武見太郎は政治家以上の政治力を持ち、日本医師会の主張を貫いた。当時の自民党、厚生省は明確な医療政策を持っていなかったため、武見は自分の考えで日本の医療をリードできたのである。武見太郎が日本医師会長として登場した昭和32年は、まさにそのような時代だった。武見太郎のポリシーは常に反官僚で、官僚は秀才集団であるが、この秀才集団に武見は具体的医療政策を挙げて戦った。

 自民党の渡辺美智雄厚生大臣は、就任の際に「よろしくご教示願います」と武見太郎にあいさつに行った。しかし武見太郎は「大学教授はやったが、幼稚園の先生はやったことがない。お断りします」と言った。このように厚生大臣でさえ相手にしなかった。

 武見太郎は25年の間、保険医総辞退、一斉休診、飛行機からのビラまきなど、さまざまな戦術で、日本医師会の主張を政府に認めさせた。健康保険診療における制限医療の撤廃、医療報酬の値上げ、医療保健行政における日本医師会主導の確立に努めた。

 厚生省は日本の医療を「開業医中心から、病院を中心」にしようとしていた。武見太郎はこの考えを持つ厚生省と渡り合い、開業医の地位と利益を守った。また医師そのものの地位を高め、医師会の政治力を強いものにした。当時の医師の政治力は強く、選挙では医師会の存在を無視できなかった。往診かばんには200票が入っていると言われたほど、当時の医師には政治力があった。

 日本医師会の基礎づくりから、日本の医療政策の根幹部分まで、武見太郎がつくったと言っても過言ではない。武見は日本の医療について高い理想を持ち、医療のあり方、将来の医療へのビジョンを持っていた。学問や研究に生きるのが医師の姿であって、医師性善説、医師聖職説、医師の学究説が基本的考えであった。

 しかし理想はそうであっても、日本医師会という巨大な組織をまとめるには、自分の本意とは違う行動も必要だった。金儲けに走る医師もいれば、向上心の欠落した医師もいたからである。武見太郎は「日本医師会で自分を理解しているのは3分の1、ノンポリの先生が3分の1、あとの3分の1はどうにもならない欲張り村の村長さん」と称した。

 欲張り村の村長さんが3分の1含まれる医師の集団をまとめるには、理想ばかりを求めることはできない。不良な医師でも選挙権を持っていたので、あからさまに欲張り村の村長さんを非難することはできなかった。武見太郎が最も苦労したのはこの三者をまとめることであったが、結果的に武見の闘争は開業医の賃上げ闘争であり、晩年には武見の独善性が批判されることになる。

 昭和50年、武見太郎はアジア初の世界医師会長となり東京総会を主宰。昭和55年4月、日本医師会の会長選挙が行われ、武見太郎133票、花岡堅而82票であった。花岡の82票はこれまでの選挙において最も多い批判票であった。

 その直後の55年5月、武見太郎は腰痛を訴え、東京・青山の前田外科で胃がんのため開腹手術を受けることになった。本人には出血性ポリープ(良性潰瘍)と伝えられ、その後、東京・築地の国立がんセンターで再手術を受けたが、がんは総胆管に転移していた。

 病魔に襲われた武見太郎は、昭和57年に引退を決意する。武見太郎の引退を受け、同年4月1日、日本医師会の選挙が行われ、反武見派の長野県医師会長・花岡堅而が武見派の宮城県医師会長・亀掛川守を121対103票で破り、日本医師会における武見体制は終わりを告げた。

 日本医師会にとって不幸なことは、武見太郎の政治力で成り立っていた日本の医療が、あたかも日本医師会の政治力によるものと誤解していたことである。武見太郎の後にも先にも、彼以上の人物は存在せず、日本医師会の政治力は次第に低下していった。

 武見太郎が日本医師会長として25年間の長期政権を可能にしたのは、武見太郎の巨大な政治力ばかりではなく、武見の個人的魅力、医学への明確な哲学があったからである。武見太郎は4回にわたる手術を行い、昭和58年12月18日、容体悪化により慶応病院に入院。2日後の12月20日、午前零時50分に死去した。解剖の結果、がんは肝臓から背骨まで転移していた。享年79。

 武見太郎は勲一等旭日大綬章を得て、二男である武見敬三は東海大助教授から参議院議員(自民党)になった。武見太郎の死によって、日本の医療は日本医師会主導から次第に厚生省主導に移行していった。