弥彦神社事件

弥彦神社事件  昭和31年(1956年)

 昭和31年1月1日午前零時過ぎ、新年の参拝客でひしめく弥彦神社で大惨事が起きた。新潟県西蒲原郡弥彦村にある弥彦神社は豊作の神として農民の信仰が厚く、その日の初詣には臨時列車や貸し切りバスで3万人が集まった。その年は雪が少なく、バスなどの交通機関が整備されたころで、例年のおよそ2倍の参拝客が集まっていた。

 新年の花火が上がったとき、弥彦神社では拝殿に向かう者と、参拝を終えて戻る者とが中央石段付近でぶつかった。さらにそのとき、新年のモチまきが始まり、そのモチの幸運にあやかろうとする参拝客が、拝殿前で大きな渦を巻いた。群集がモチに殺到し、モチの奪い合いが惨事を招いた。

 押し寄せる人並みは15段の石段上の玉カギを崩し、支えを失った参拝客が将棋倒しになって、次々に2メートル下に落ち、124人(男86人、女38人)が下敷きになって圧死、94人が重傷を負った。亡くなられた犠牲者たちは、弥彦神社の拝観所に安置された。

 事故のきかっけとなったモチまきは初めての試みであった。警察官の過失責任が問われたが、3万人の参拝客に警察官は16人だけで、ほとんどが交通整理に割り振られていた。そのため事故は予測できなかったとして不起訴処分となった。後日、この無謀なモチまきを行った弥彦神社の神官は全員入れ替えになった。

 124人が死亡した弥彦神社の惨事は、正月のおめでたい日に、最もおめでたい場所で起きた。当時の弥彦神社には照明がなく、境内は暗かった。参拝客のなかには飲酒者が混じっていて、自制心を失った群集がこの惨事を引き起こした。この大惨事にもかかわらず、弥彦神社の参詣者は翌年以降も増え続け、正月の参詣者数は毎年約30万人となっている。

 弥彦神社の祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)のひ孫にあたる天香山命(あめのかぐやまのみこと)とされ、1300年以上の歴史を持つ日本でも有数の神社である。新潟県では最も格式が高く、最も参拝客が多い神社で、源義経、親鸞、芭蕉、良寛なども参拝し、上杉謙信は川中島出陣に際して願文を奉納している。このように由緒ある神社での大惨事だった。

 神社での圧死事件は、この弥彦神社だけであるが、正月というおめでたい日の圧死事件はほかにもある。弥彦神社事件の2年前の昭和29年1月2日、好天に恵まれた皇居に一般参賀38万人が詰めかけ、警察がロープ規制を解除すると、参賀の人たちは狭い二重橋の上で身動きが取れなくなり、将棋倒しになって16人が死亡、65人が重軽傷を負う惨事となった。警察の整理の不手際、警備態勢が問題になったが、警視庁と皇居警察本部は9人を行政処分にしただけだった。

 また昭和36年の元日、岩手県の松尾鉱山小学校で1800人の学童が集まり、新年祝賀式が行われた。学校の裏にある校舎で映画会が行われることになり、学童が入り口に殺到、1人の学童が転んだことから将棋倒しとなり10人の学童が死亡、10人が負傷している。これらはおめでたい正月の日の悲しい事故である。

 最近では、同様の圧死事件が明石花火大会で起きている。平成13年7月21日、明石市大蔵海岸にて第32回明石市民夏まつり花火大会が行われた。午後8時半頃、朝霧駅南側の歩道橋で、駅からの見物客と会場から帰る見物客がぶつかり異常な混雑となった。そのため歩道橋で群衆雪崩が発生、死者11人、重軽傷者247人を出す惨事となった。