小児麻痺ワクチン

小児麻痺ワクチン  昭和36年(1961年)

 小児麻痺は19世紀後半から世界各地で流行したウイルス性疾患である。この病気はポリオウイルスの感染によるもので、欧米では「ポリオ」(急性灰白髄炎)と呼ばれ、人々から恐れられていた。ポリオとはギリシャ語で灰色を意味する言葉で、ウイルスが脊髄の灰白質を冒すために名付けられた病名である。

 日本では手足が麻痺することから、文字通り小児麻痺と呼ばれていた。ポリオウイルスはどの年齢層にも感染するが、乳幼児が感染した場合に重篤な麻痺を残した。

 小児麻痺ワクチンができるまでは、当時の人々にとってポリオは脅威そのものであった。1916年に起きたアメリカのポリオの流行では6000人が死亡し、2万7000人が後遺症として麻痺を残した。流行の中心になったのはニューヨーク市で、そのためニューヨーク市から5万人もの裕福な家庭が郊外に逃げだそうとして自動車がハイウエーに殺到。このパニックを沈静化させるため、ニューヨーク市当局は16歳以下の小児の市外への移動を禁止し、自家用車や列車でニューヨークから脱出しようとする家族を警備員が実力で阻止した。この例が示すように、当時の人々にとって、特に子供を持つ親にとってポリオは恐怖の的であった。

 アメリカ32代大統領ルーズベルトも40歳の時に小児麻痺に罹患し両足に麻痺を残したが、この後遺症を克服して大統領になっている。このように小児麻痺は世界的な問題になり、ポリオ撲滅のためにワクチンの開発が急がれていた。アメリカではマーチ・オブ・ダイムという運動が盛り上がり、人々はワクチン開発の資金として1ダイム(10セント)を出し合った。

 小児麻痺の症状は発熱、嘔吐など風邪に似た症状から始まり、解熱して家族が安心した時期に下肢の麻痺が出現するのが特徴である。ポリオウイルスの感染性は極めて強いが、感染しても90%以上の人は無症状か風邪程度の軽い症状で終わる。いわゆる不顕性感染がほとんどで、手足の麻痺を残すのは0.1〜0.5%とされている。つまりポリオウイルスの感染を受け何らかの症状が出ても、麻痺が出るのは1〜2%であった。

 小児麻痺の感染は便から排出されたポリオウイルスが飲食物から経口感染、あるいは飛沫感染により伝染する。体内に入り、増殖したポリオウイルスが脊髄の灰白質に浸入すると、四肢の麻痺を生じさせる。いったん麻痺が生じると回復は見込めず、後遺症として麻痺を残すことになる。麻痺を残す患者のほとんどは幼い子供たちで、障害児、装具、松葉杖、鉄の肺のイメージが母親たちを恐怖に陥れていた。また呼吸筋の麻痺により死に至る子供も多かった。

 昭和28年、初めての小児麻痺のワクチンがアメリカで開発され、このワクチンはピッツバーグ大学のソーク博士がサル腎臓組織培養法を用いて開発したため、ソークワクチンと名付けられた。ソークワクチンは、ポリオウイルスをホルマリンで処理し、病原性をなくして生体に免疫反応だけを起こさせる不活性ワクチンである。世界で初めての小児麻痺ワクチンで、ソークワクチンはアメリカの期待が込められていた。このソークワクチンの完成を祝って、アメリカ中の教会の鐘が一斉に鳴らされたと記録されている。

 ソークワクチンは、米国で44万人の子供に接種され小児麻痺に有効とされた。アメリカでは、年間3万人以上の小児麻痺患者と2000人前後の死亡患者が発生していたが、ソークワクチンの投与により患者数は年間5000人、死者数は200人程度に激減した。ソークワクチンは世界中で用いられるようになった。しかしこのソークワクチンに安全性の問題があった。ワクチン接種によって小児麻痺が引き起こされる事件が散発的に発生した。ワクチンに野生ウイルスが混入していたため、ワクチンにより小児麻痺を発生させたのだった。特に「カッター事件」では、ワクチン接種により大量の患者と死者を出すことになった。

 日本では、戦争前には小児麻痺の流行はみられていない。そのため小児麻痺の研究、ワクチンの開発は日本ではなされていなかった。このように無防備な日本に、終戦直後から小児麻痺が次第に増加していった。昭和34年6月、厚生省はポリオを指定伝染病に指定するが、その1か月後の7月に、小児麻痺の大規模な流行が青森県八戸市から始まった。同時期、アメリカでも小児麻痺が流行していたため、アメリカは日本にワクチンを提供できず、日本の小児は無防備のままポリオウイルスにさらされることになった。青森県でも小児麻痺が大流行し、患者は141人に達した。

 このような状況のなかで、八戸市の開業医がソ連でポリオワクチンが普及していることを偶然にモスクワ放送を聞いて知り、同市の医師・津川武一と岩淵謙一はポリオワクチンを得るために奔走した。ソ連大使館を通じてワクチンを寄贈してもらうことに成功し、同年9月2日、約2万人分のポリオワクチンが日本に届くことになった。

 しかし薬事法上の問題、さらには「赤い国」からの寄贈ということもあって厚生省の許可が下りず、ワクチンの有効期限が迫ってきた。厚生省はアメリカ製ワクチンを優先することにこだわり、そのためソ連製ワクチンが国内で使用されたのは、小児麻痺の流行が去った10月からであった。

 子供たちを守るために奔走した岩淵は夜も眠れないほどの焦燥に駆られ、ワクチン接種の実現をみないまま心臓マヒで死去、その生涯を閉じた。結局、この年の小児麻痺患者は2917人に達した。

 昭和35年、今度は北海道から小児麻痺が流行し始め、瞬く間に日本全土に広がっていった。厚生省はソークワクチンでこの流行を食い止めようとしたが、ソークワクチンの効果は低下しており、流行を食い止めることはできなかった。感染者は5606人に達し、319人が死亡する惨事となった。小児麻痺に有効な治療法はなく、ワクチンによる予防だけであったが、日本には国産のワクチンはなく、欧米のワクチンに頼るしかなかった。

 ワクチンは「病原性を弱めたウイルスを、事前に身体に注入して免疫を獲得させ、野生のウイルスが感染したときに発病を抑える方法」である。このワクチンが病気を引き起こす野生ウイルスの構造に近ければ免疫は強くなり予防効果は高くなる。しかし構造が似すぎると、ワクチンそのものが感染を起こすことになる。毒性の弱いウイルスで毒性の強いウイルスを予防することで、この毒性のバランスを図りながらワクチンは開発されている。

 ソークワクチンは小児麻痺根絶の期待を担っていたが、その安全性と有効性に改良の余地があった。そのため世界の態勢は不活性ワクチンである生ワクチンへと移行していった。生ワクチンとは、ウイルスを何代にもわたり培養を繰り返し、その病原性をなくした生きたウイルスを用いたワクチンである。ソークワクチンは死滅させたポリオウイルスを用いたため、小児麻痺への予防効果が弱かったのである。

 昭和33年、アメリカのセービンが経口生ワクチンの開発に成功。欧米では35年からソークワクチンに代わり、安全で予防効果の高い生ワクチンが用いられるようになった。日本では生ワクチンと呼んでいるが、セービンが開発した生ワクチンは通称セービンワクチンと呼ばれている。欧米では生ワクチンが小児麻痺ワクチンの主流となったが、日本ではまだソークワクチンが用いられていた。このソークワクチンが、35年の大流行時に無効だった。そのため翌36年の流行時には、日本中の母親は小児麻痺の脅威の前にパニック状態に陥った。

 昭和36年の小児麻痺は九州から発生し、次第に日本を北上していった。同年の半年だけで患者は1700人、100人近くが死亡する大流行となった。この流行を前に、多くの母親はソークワクチンの効果が低下していることをが知っていたので、全国の母親は恐怖に陥った。ちょうどそのころ、ソ連ではポリオウイルスを弱毒化した「経口生ワクチン」の投与が始まっていた。このことを知った母親たちは、ソ連製の生ワクチンを輸入するための運動を始めた。

 昭和36年5月13日、「子供を小児麻痺から守る中央協議会」を初めとした13団体の代表者300人が東京で集会を開き、生ワクチンの緊急輸入を厚生省に要請した。また、全国の母親が連日のように厚生省に押しかけ生ワクチンの輸入を迫った。

 しかし開発されたばかりの生ワクチンは、その安全性、副作用が十分に分かっていなかった。生ワクチンは生きているウイルスを体内に入れるため、ウイルスが体内で増殖し、他人に感染させる可能性が懸念された。つまり弱毒化したウイルスによる小児麻痺の二次感染が心配された。厚生省は薬事法を盾に、安全性が確認できるまでソ連製生ワクチンを輸入しない方針を立てていた。効果や安全性が確認されない以上、ワクチンといえども生きたウイルスを使うことは流行に火を注ぐことになりかねないとした。

 このとき古井喜実・厚生大臣は「事態の緊急性を考えると、専門化の意見は意見として、非常の対策を決行しなければならない。責任はすべて私にある」との談話を発表し、厚生省幹部の慎重論を押し切って緊急輸入を決断した。昭和36年6月21日、小児麻痺の生ワクチン1300万人分がソ連から緊急輸入されることになった。このスピーディな輸入は古井厚生大臣の英断であった。

 同年7月20日、全国の小学校で1年生から4年生までを対象に生ワクチンの一斉投与が開始された。母親の心配をよそに、ボンボン型のワクチンは甘くておいしいと児童たちに好評であった。この生ワクチンの効果は絶大で、小児麻痺の大流行はピタリと収まり、同年11月には小児麻痺の発生はゼロになった。翌年にはカナダからシロップ状の小児麻痺生ワクチン1700万人分が輸入され、乳幼児から小学生まで投与された。

 このように母親たちの運動、厚生大臣の決断により、小児麻痺の大流行を水際で食い止めることができた。以後4年間の患者発生率はそれまでの60分の1に激減し、昭和55年の長野県での報告を最後に小児麻痺はゼロになった。日本の小児麻痺の累積患者数は2万人以上とされている。

 小児麻痺生ワクチンは、ウイルスを弱毒化させた安全なワクチンであるが、生ワクチンの欠点として、50万人に1人の確率で弱毒ウイルスが脳脊髄に浸入して麻痺を起こすことがある。またワクチン投与を受けた場合、平均26日間にわたってウイルスが便中に排泄されるため、ワクチンを受けていない子に感染して麻痺をきたすことが極めてまれに発生する(確率は500万分の1)。このような生ワクチンによる小児麻痺の二次感染はいずれも軽症例であるが、これまで6例が報告されている。

 世界保健機関(WHO)は南北アメリカでポリオの根絶宣言を行った。平成12年、日本を含む西太平洋地域においてもポリオの根絶宣言が出され、母親を恐怖のどん底に陥れた小児麻痺は日本では過去の疾患になった。ポリオは一度感染すれば二度と感染することはない。つまり、天然痘と同じようにワクチンによって撲滅されたのである。

 小児麻痺はすでに日本から姿を消しているが、「小児麻痺は、子供を持つ母親が厚生省と交渉し、自分たちの力で子供を守った疾患」として長く記憶に残すべきである。