姥捨て山伝説

姥捨て山伝説 昭和32年(1957年)

 作家・深沢七郎のデビュー作「楢山節考」は、昭和32年のベストセラーとなった作品で、かつて日本各地にあった「姥捨て山伝説」を小説にしたものである。小説の舞台となった信州の山村では、70歳になった老人を人里離れた楢山に連れてゆき、置き去りにして老人を死に追いやる掟があった。それは貧しい村を救うための掟であったが、その残酷な掟は山の神を敬う村人の信仰心に置き換えられていた。

 晩秋となり楢山参りの日が近づくと、おりん婆さんはみずから山にゆく用意を淡々と始め、しぶる息子の辰平をせかして楢山へ向う。辰平は村の掟に違和感を抱きながら、おりん婆さんを背負い、無言のまま険しい山道を登って行く。楢山の頂上に近づくと、あたりには死体や白骨が見えはじめた。おりん婆さんは岩陰に降り立つと、岩陰にムシロを敷いてすわり、辰平に山からおりるように手で合図した。降りかかる雪、老婆の周囲に群がる黒いカラス、悲しみをこらえながら山を下る辰平。山道を下る辰平は、村の掟を破り、きびすを返して山頂へ駈け登った。そして念仏を称えているおりん婆さんに「雪が降ってきて、運がいいなあ」と呼びかけた。おりん婆さんはうなずくと、早く帰れと追い立てるように手を振った。村に帰った辰平は楢山をのぞみながら、「わしも70になったら山へ行くんだ」とつぶやき合掌した。

 姥捨てという行為は非人道的で、残酷な村の掟であったが、小説・楢山節考にはその残酷さが感じられず、むしろ生死を温かく包みこむ日本人の死生観が伝わってくる。死を草木が枯れる自然なものとと捉える老婆の心情が伝わってくる。死に対して恐れも悲しみもない老婆の心情、老婆を死に追いやる息子の葛藤、これらの感情が素直にしかも淡々と書かれていた。

 昭和32年頃の日本は豊になったが、数年前までの日本は貧しく、冷害となれば娘を身売りに出していた。生産能力を失った老人は家族の負担となり、老人を抱えることは家族にとって脅威であった。このような貧しい時代の記憶が残っている人たちにとって、楢山節考は大きな衝撃であった。日本人が忘れかけていた最も人間的なものを、深沢七郎は楢山節考で表現したのだった。人間の死について書かれた小説は無数にあるが、楢山節考は死について偽りの感情がなく、非人間的でありながら、人間らしい温かみを感じさせた。

正宗白鳥は楢山節考について、「私はこの小説を面白くて、娯楽として読んだのではない。人生永遠の書のひとつとして心読したつもりである」と絶賛した。昭和33年、楢山節考は松竹・木下啓介監督によって映画化され、老婆役を演じた田中絹代は実際に何本かの前歯を抜いて撮影に臨み話題になった。また昭和58年にも今村昌平監督によって映画化され、坂本スミコが主役を演じ、第36 回のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。

 深沢七郎は山梨県の石和町(現笛吹市)で生まれた。石和町は、昭和36年にブドウ畑から突然温泉が湧き温泉街として有名になったが、深沢七郎は温泉のない時代の石和町で育った。少年時代からギターが好きで、日劇ミュージックホールのギタリストをしていた。それがどうしたことか楽屋で楢山節考を書き、第1回中央公論新人賞を受賞した。新人賞の審査員は伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫の3人で、3人ともこの作品にショックをうけた。

 深沢七郎は楢山節考によって異色の作家として注目され、さらに昭和33年には、戦国時代の甲州を舞台にした「笛吹川」を書き上げている。このように楢山節考、笛吹川で名をあげた深沢七郎であったが、昭和35年12月号の中央公論に掲載された「風流無譚」が大問題を引き起こした。

 風流夢譚は文字通り夢の中の出来事を描いた一種の風刺小説である。その内容は「日本で左欲による革命が起こり、天皇、皇后、皇太子ら皇族が捕まり、皇居前広場で処刑されることになる。マサカリが振り下ろされ、皇太子殿下、皇太子妃殿下の首がスッテンコロリンと転がり、見物していた自分も殺されそうになった時に目を覚ました」という天皇を侮辱するものであった。この風流無譚は夢物語に仕立てられていたが、皇室を侮辱するものとして問題になった。あの悪名高い「不敬罪」は戦後廃止されていたが、宮内庁はこの小説を皇室への名誉棄損と受け止め中央公論社に抗議した。

 中央公論社は「表現の自由」の議論を避け、配慮が足りなかったと宮内庁に陳謝し、1月号に謝罪文を掲載した。また中央公論社は編集長・竹森清を解任し、嶋中社長が編集長を兼任することになり、この事件は一件落着したかのようにみえた。

 「表現の自由」は当時のマスコミが最も大切にしていたもので、宮内庁も「表現の自由」の議論を避け、中央公論社の謝罪を誠意あるものと受け止めた。しかし、この流れの中で右翼が激怒し、赤尾敏がひきいる大日本愛国党員8人が中央公論社に押しかけ謝罪を求めた。さらに国粋会、松葉会などの右翼団体が中央公論社に押しかけて乱入した。

 当時は、安保闘争により左翼勢力が増し、それに対抗するように右翼の勢力もピークに達し、革命前夜のような緊張が張りつめていた。このような背景の中で、この事件の数ヶ月前に浅沼委員長刺殺事件が起きている。

 浅沼委員長刺殺事件とは、日比谷公会堂で開かれた与野党党首演説会の壇上で、社会党委員長・浅沼稲次郎が右翼少年に短刀で刺殺された事件である。演説していた浅沼稲次郎に、突然壇上に上がってきた青年が、短刀を脇に抱え体当たりして、その瞬間がテレビで放映され、国民の目を釘付けにした。浅沼稲次郎は日比谷病院に運ばれたが絶命した。安保反対運動の先頭に立っていた野党第一党の党首が、壇上で公然と刺殺されたのである。民主主義の時代に、この右翼テロは国民に戦慄をもたらした。犯人の山口ニ矢(おとや)は「浅沼は売国思想だから殺した」と自供、その後、山口は練馬の鑑別所で首つり自殺した。壁には練り歯磨きで「七生報国 天皇陛下万歳」と書かれていた。

 この浅沼委員長刺殺事件の数ヶ月後に風流夢譚事件が起き、右翼団体は新聞への陳謝文の掲載と深沢七郎の海外追放を要求した。右翼の抗議は止まらず、帝都日日新聞社が「赤色革命から国民を守る国民大会」を日比谷公会堂で開き、中央公論社の解散要求などを訴えた。このように騒然とした中で、この風流夢譚は思わぬ事件を起こした。

 昭和36年2月1日午後9時15分頃、東京新宿区市ヶ谷の住宅街にある中論公論社長・嶋中鵬二(37)宅に17歳の愛国党党員・小森一孝が無断で応接室に上がり、「右翼だ、主人はいないか。風流夢譚はなんだ。ふざけるな!」と叫んだ。家事手伝いの丸山かね(50)さんが「嶋中社長は不在」と告げると、小森一孝は奥の部屋に行き、社長夫人の嶋中雅子(35)さんの胸を刺し、全治2ヵ月の重傷を負わせ、止めようとした丸山かねさんの脇腹を刺し、丸山かねさんは同夜に死亡した。

 犯人の小森一孝は長崎県諫早市の出身で、長崎地検諫早支部の副検事の長男だった。東大を目指して勉強していたが、安保などの社会問題に悩み、赤尾敏が率いる大日本愛国党に入党していた。小森一孝は事件前日に大日本愛国党を脱党して、この殺傷事件に及んだ。小森一孝は犯行翌日、浅草山谷のマンモス交番に自首。小森のポケットのハンカチには「君オモヒ国ヲオモヘバ世ノ人ゾ、イカデ惜シマン露ノ命ヲ」、と辞世めいた句が書かれていた。

 小森一孝は3ヵ月前に起きた、浅沼委員長刺殺事件の山口ニ矢と同じ17歳で、未成年であったが朝日新聞が実名で報道し、その名が知られることになった。浅沼稲次郎を刺殺させ自決した山口ニ矢は右翼から英雄視され、無抵抗の女性を死傷させた小森一孝は誰からも評価されなかった。

 昭和37年2月、東京地裁は小森一孝に懲役15年の判決を下した。丸山かねさん殺害は小森の単独犯であったが、警視庁は背後に大日本愛国党党首の赤尾総裁が関与しているとして、殺人教唆容疑で赤尾を逮捕。赤尾は殺人教唆については証拠不十分で不起訴処分となったが、暴力行為等処罰法違反で懲役8月の判決が下された。小森一孝、山口ニ矢による殺害動機はかつての暗殺事件と同じであるが、この事件以来、このような暗殺事件は日本では起きていない。

 中論公論社長の嶋中鵬二は、事件後に中央公論編集長を辞任、記者会見で風流無譚を掲載したことは間違いだったと謝罪した。また同時に「失礼は失礼として、年端もいかない者を殺人行為におもむかせるような風潮と言動を激しく憎む」と述べた。

 この事件は少年による突発的犯罪であったが、それまで比較的自由であった天皇や皇室に関する言動がこの事件によってタブーとなった。さらに国民の生命を守る治安行政のあり方、言論の自由が問題になり、その意味ではこの事件は歴史的に重要な事件であった。当時の日本は、GHQにより価値観が解体されたが、まだ旧日本の体制と価値観を持つ者がいて、この混迷がこのような事件を引き起こした。

 風流夢譚は右翼を怒らせ発禁となったが、当時の三島由紀夫は「これは面白い、いい小説だ」と評価した。三島由は天皇崇拝者であるが、風流夢譚を文芸上のユーモアと捉えていた。そのため三島は連日、右翼からの抗議を受けることになる。憂国という小説を書いた三島は右翼とされがちであるが、この事件によって三島は右翼ぎらいになった。なお昭和36年には大江健三郎が浅沼稲次郎暗殺をモチーフにした「政治少年死す」を発表したが、右翼の抗議から発禁となっている。

 深沢七郎は「皇室への不敬罪がなくなったのだから、何を書いてもよいという友人の言葉を信じたのだが、人を侮辱するような小説を書いたのは間違いであった。私がいけなかった。失敗だった」と述べている。この事件以降、深沢七郎は3年間にわたり日本国内を転々として世間から身を隠す生活を送った。

 昭和40年になって、深沢七郎は埼玉県・菖蒲町に「ララミー牧場」を作り、長い流浪の生活に終りをつげた。昭和56年に「みちのくの人形たち」を書き、谷崎潤一郎賞を受賞している。昭和62年、深沢七郎は心不全で死去(享年73)、波瀾万丈の人生を終えた。なおこの事件がおきた昭和36年、深沢七郎の生まれ故郷である山梨県・石和町の果樹園で温泉が湧きだし、石和町はそれ以降、有名な温泉街に変身している。