売春防止法

売春防止法 昭和33年(1958年)

 日本には、江戸時代の以前から公娼制度が存在していたが、明治5年に明治政府は外国への体裁から娼妓解放令を行い、女性の人身売買を建前上禁止した。しかし実効性に乏しかったことから、遊郭に集まってくる女性たちは何ら変わらず、親の借金を背負った娘たちは年季奉公を強いられ身体を犠牲にして働いた。人類史上最古の職業と言われている売春は、江戸時代から、明治、大正、昭和と年号が変わっても、公娼制度は戦後まで残されていた。

 しかし昭和21年1月、GHQは日本政府にそれまでの公娼制度の廃止を命令。昭和22年1月15日に、「婦人に売淫をさせた者の処罰に関する勅令」が発令され、公娼、私娼を問わず、婦人に売淫をさせることを禁じた。このことで日本の長い遊郭の歴史は幕を閉じるばずであったが、公娼制度は廃止されたが、売春が野放しになったため性風俗は乱れていった。そのため昭和22年11月14日、吉田内閣は性風俗の混乱を防ぐために、かつての遊郭地域を特殊飲食街に指定し、その区域に限り売春を黙認することにした。つまり風紀上支障のない地域に限って売春を認めることにし、これが赤線と呼ばれる区域である。

 赤線の理屈は「性風俗の悪化防止と、良家の子女を守ること」であって、特殊飲食街の指定という形で、実質的に公娼制度は残された。赤線はかつての遊郭と同じで、警察が地図上に赤い線で囲んだことから赤線と呼ばれるようになった。東京の赤線は、吉原、州崎、新宿、立川、小岩、向島など25カ所で、この地域はそれまでの遊郭の場所と同じで、経営者もほとんど同じだった。この赤線として公認された地域以外での売春は禁止された。

 しかしこの赤線に指定されていない地域で、隠れて客をとる「もぐりの売春街」が現れるようになり、その地区を青線と呼ぶようになった。青線は、表面上はキャバレー、バー、飲食店であるが、実際にはホステスによる売春行為が行われていた。1階の飲食店で飲み食いをして、2階で客を取る形態が多く、新宿のゴールデン街は昔の青線の名残である。このようにして戦後の性風俗を飾るものとして、黙認された売春地区ができた。

 昭和29年、労働省の調べによると、全国の集娼地区、つまり赤線、青線、駐留軍基地などは1921カ所、売春業者3万7112軒、売春婦は12万9008人であった。さらにもぐりの街娼などを含めると、売春にかかわる人たちの総数は50万人とされた。

 こうした売春制度への反対運動も熱心に進められ、婦人団体による赤線や青線反対運動が次第に広がりをみせていった。昭和31年までに、女性議員らによって売春を禁じる法案は5回、国会に提出されたが、いずれも保守党議員の抵抗で廃案となった。廃案の背景には売春業者からの多額の運動資金があった。

 昭和30年5月、鹿児島市の旅館・松元荘の少女売春が売春防止法のきっかけをつくった。松元荘事件とは、15歳の中学生をはじめとした高校生ら未成年9人を含む23人が、建設会社社長夫妻によって売春を強要された事件である。

 「玄人の女はもう飽きた。高校生のような初々しい娘と遊びたい」という客の要求から、女子高校生らを誘い、売春をさせていたのである。高校生たちには「学費を稼がせてやる」と誘い、制服姿のまま客席に出させて1500円で売春をさせていた。客の中に会社社長や病院長、公務員、マスコミ関係者ら県内の名士が多数いて、さらに県議、町長、県庁の土木担当課長らによる指名入札に絡む贈収賄事件発覚の糸口になった。また事件発覚後16歳の女子高校生が自殺するという痛ましい展開になった。

 全国紙が「松元荘事件の真相を探る、知名人多数が関係」と大きく報道し、松元荘事件は全国的に知られるようになった。この「松元荘事件」によって、売春を非難する世論が盛り上がった。まず鹿児島で売春禁止運動が始まり、婦人、学生が立ち上がり、鹿児島県売春禁止法制定促進委員会が結成され、次ぎに国会の婦人議員も動き出し、市川房枝、神近市子、藤原道子らの婦人議員による超党派運動が行われた。

 昭和30年5月13日、藤原議員が参院本会議で緊急質問。鳩山一郎首相から「売春禁止法は必要」とする発言を得るが、衆院法務委員会に提出された「売春等処罰法案」は19票対11票で否決された。しかしその後、大逆転が起きる。神近市子議員が法務委員会で、「法案成立を阻止した赤線温存派議員たちは、売春業者から金を受け取っている。そのような意図からの法案反対は納得できない。政治的陰謀によってつぶされた」と発言したのだった。この発言は新聞で報道され、赤線温存派に決定的な打撃を与え、いわゆる「売春汚職」が摘発されることになった。

 全国の赤線業者の団体である全国性病予防自治会(全性連)が、全国5万5000人の売春婦から1人200円を巻き上げ、売春防止法の国会通過阻止のため20数人の国会議員に金を配っていたのだった。このため鈴木明理事ら赤線業者4人が贈賄で、国会議員3人(真鍋儀十、椎名隆、首藤新八)が収賄で逮捕された。また元警視総監も取り調べを受け、この「最も汚らわしい汚職」への世間の反発は大きく、売春防止法は6回目の国会提出でやっと成立した。「売春追放こそが女性解放の第一歩」。明治時代に始まった廃娼運動から80年目にしてようやく日の目を見ることになった。

 成立から2年後の昭和33年4月1日から施行が決定。そして施行前日の3月31日の午前零時、全国の赤線の灯が消えた。東京・新宿では街中に「蛍の光」が流れ、時代が変わったことが告げられた。しかし売春防止法で重要なことは、「客をとった女性、客となった男性は罪に問われない」ことである。売春防止法は管理売春、つまり売春業者を罰する法律で、売春行為そのものを処罰する法律ではないのだった。

 売春防止法の条文は、「なにびとも売春を行い、又はその相手となってはならない」と規定しているが、それは法の理念であって、売春行為や売春婦は処罰の対象にはならなかった。売春防止法の目的はあくまでも「売春行為を助長する斡旋を禁じること」で、つまり少女たちが一家の犠牲となり、現金と引き換えに人身売買されていた悲劇を防止することが目的で、売春行為それ自体への罰則規定はなかった。売春防止法は悪質な管理売春の撲滅のためで、この法律の名前も「売春防止法であって売春取締法」ではなかった。

 売春の斡旋とは客引きや勧誘、売春の場所や資金を提供することで、違反すれば最高懲役10年、または罰金30万円に処するという厳しい内容であった。罰金30万円は当時の大学初任給の23倍の値段であった。このように売春防止法の対象は管理売春で、個人売春や単純売春は処罰されなかった。売春防止法は売春婦の環境を清める法律で、売春婦たちの保護に重点が置かれた。

 そのため売春防止法は成立したが、ひも付きの売春婦や個人営業の「散娼」が増える結果となった。手頃なアパートに売春婦を住まわせ、稼いだ金をピンハネする新手の売春が生まれ、警察はこれを「白線」と呼んだ。警察はこの「白線」を摘発しようとしたが、「白線」は野放し状態となった。このように売春防止法は成立当初からザル法と批判されたが、売春の悲劇に大きなくいを打ち込んだ意義は大きかった。

 売春防止法により失業した売春婦たちの保護を目的に、新たに保護更生規定が追加され、売春婦は補導指導が行われた。しかし全国で12万人とされる女性たちの生活が変わるはずはなかった。赤線区域の売春施設は消滅したが、形を変えた売春や性サービスは以前に増して盛んになった。警視庁は、売春防止法が施行されて1年後には、6割の売春婦が舞い戻り、多くが街娼となっていると公表している。売春防止法施行による性病の調査では、売春防止法施行後の性病罹患率は2倍に増え、検挙された売春婦の55%が性病に侵されていた。

 売春防止法が実施され、全国の赤線の灯は消え、夜の街から女性が消えたが、それは数カ月だけの現象であった。売春防止法が施行されて3カ月後には都内に37軒のトルコ風呂が開店した。トルコ風呂は新しい売春の形態で、公衆浴場法で規定されることより売春の抜け穴となった。このように表面上消滅した売春は地下に潜行、形を変えて存続した。

 売春防止法は管理売春を罰するザル法であるが、子供への性的搾取や虐待を防止するため、平成11年11月1日、児童買春禁止法が制定された。この児童買春禁止法は買う側の処罰を盛り込んだ法律で、対象となるのは18歳未満の児童である。子供の年齢が18歳未満であることを知らなくても、知らないことを理由に処罰を免れることはできない。

 児童買春をした者は3年以下の懲役または100万円以下の罰金に処せられる。被害者である子供の告訴を必要とせず、海外での行為も処罰の対象となる。また児童買春を斡旋した者は、3年以下の懲役または300万円以下の罰金となる。

 当時の売春は、生活苦が動機であったが、最近では好奇心や小遣い稼ぎが売春の動機になっている。金銭による商取引が中心である現代社会において、ボランティアを除き、人間のあらゆる行為は金銭と関係している。売春を犯罪と呼ぶべきか、少なくても売春をしている女性は売春を犯罪とは思っていない。女性は金銭目的の身体を張った商売と受け止めており、売春は被害者なき犯罪といえる。

 金銭を介した不特定多数との性行為は売春で、金銭を介した特定愛人との性行為は売春ではないが、これらは性の道徳概念、倫理の問題になるのではないだろうか。現在、ソープランド、愛人バンク、テレクラ、デリバリーヘルス、海外での売春、このように法の網の目をくぐった性産業は多様化している。売春を行う女性のほとんどは自分の意志で行っていて、ピンハネはあるものの管理売春は地下に潜伏した売春紹介業となっているのが現状である。

 なお最近、買春という言葉が使われるようになった。売春を行う女性よりも、女性を買う男性に問題があるとするもので、特に海外における、「買春ツアー」「買春観光」が問題になった。買春という言葉は、昭和49年、朝日新聞記者・松井やよりが使った言葉がもとになっている。