国民皆保険制度

国民皆保険制度 昭和36年(1961年)

 昭和36年、国民皆保険制度が発足した。この制度により国民全員は何らかの医療保険に強制的に加入させられることになった。国民皆保険制度の発足により、日本人は日本のどこにいても、どんな時でも適切な医療が受けられるようになった。国民皆保険制度は世界に類をみない世界最高の医療制度である。国民皆保険制度を説明する前に、日本の医療制度の経緯について歴史をたどってみたい。

 江戸時代までは病気の治療費はすべて自費であった。医療に保険という概念はなく、医療費は診察をした医師が自由に設定できた。そのため医療を受けられるのは裕福な者に限られ、日本人の多くは医師の診察を受けられずに、「野垂れ死」の状態に近かった。

 もちろん医療には昔から「人道的な施し」という面があったので、医師は裕福な家から多額の治療費を取り、貧しい患者からは治療費を取らない傾向にあった。とは言うものの、実際には貧困層の人々は医師の診察を受けられずに死んでいった。

 江戸時代の医療は漢方医学が中心だったので、医療を受けられたとしてもその恩恵は少なく、むしろ医師の診察を受けたという心理的な効果が大きかった。当時の医師の仕事はクスリの調合が主だったので、医師は薬師(くすし)と呼ばれていた。医師には免許制度はなかったので誰でも医師になれた。逆に言えば、医師は沢山いたがヤブ医者も多かった。

 医師のほとんどは個人開業で、病院という施設はなかった。赤ひげ(山本周五郎作)で有名な小石川養生所が江戸時代に建設されたが、それは例外中の例外であった。歴史的に日本の医療は個人営業の開業医が全体をリードし、病院の役割が増したのは明治以降のことである。

 江戸時代から明治時代になると、明治政府は富国強兵を国策に掲げ、国の基盤を強化して欧米に追いつくことを目標にした。医学も欧米の影響を受け、漢方医学から西洋医学へと大きく移行した。

 明治になって医学は漢方医学から西洋医学へと大きく変化したが、明治前後の日本人の平均寿命はほとんどの変化がないことから、明治時代の医学が国民へ果たした貢献度はそれほど大きなものではなかった。しかし明治政府の医学や医療への取り組みは熱心だった。国家の礎である軍人や労働者の生活を安定させるために、保険医療制度を導入したのである。また当時盛んだった労働運動を弱体化させるために、労働者を中心に医療保険制度の育成政策が図られた。このように軍人や労働者に国家が行った政策を、民間が追従することになった。

 医療保険制度は病気になった場合に互いに助け合う制度で、大企業から中小企業へと保険制度が広がっていった。大正11年には工場労働者用に健康保険制度が創設され、昭和2年に健康保険法が施行された。このようにわが国の医療保険の土台が次第に作られていった。

 当初の健康保険制度は、各保険組合が医師会と契約を結び、診療報酬を1人につき一定の額を支払う人頭割請負方式であった。しかしこの医療保険制度は普及せず、多くの開業医は自費診療が中心で、保険診療はごく一部にすぎなかった。昭和13年に自営業者、農業者を対象に国民健康保険制度が創設されたが、わが国の医療保険制度はまだ十分ではなかった。

 当時の医療は開業医中心の医療で、医師の8割は開業医であった。各家庭にはかかりつけの医師がいて往診をしていた。開業医は世襲が多く、医師には地元住民の尊敬と信頼があった。そのため医療ミスという言葉は存在せず、すべては寿命とあきらめ、先生に診てもらって死んだのだから仕方がないとの気持ちがあった。

 この医師と患者の関係を示すように、医師に払う医療費は「支払い」とはいわずに「謝礼」といった。開業医には裕福な者が多かったが、それは開業医が儲かったこともあるが、開業医は地主、山林主、家主などを兼ね、豊かな者が開業医となっていたこともあった。

 昭和20年、敗戦と共に日本の医療も大きく変化することになる。ひとつは農地改革で、地主を兼ねていた医師が没落。さらに爆発的なインフレによって医療はほとんど壊滅状態に陥った。医薬品の極度の不足、価格の高騰のため、安い保険診療による開業医の生活は苦しくなった。

 医薬品はヤミ相場で暴騰し、安い保険診療での診療は開業医の死活問題となり、そのため自由診療を行う医療機関が多く、開業医は「保険診療は扱いません」と表示し、患者も保険診療を「貧乏人のシンボル」として羞恥心から使う患者は少なかった。

 昭和20年に1点35銭だった保険標準単価が、23年に一挙に10円に引き上げられ、ようやく保険診療を行う医師が増え、健康保険制度も機能するようになった。昭和24年には医薬分業問題が起こり、日本薬剤師会と日本医師会の対立が始まった。

 明治7年の医制では「医師タル者ハ自ラ薬ヲヒサグコトヲ禁ズ。医師ハ処方書ヲ病家ニ付与シ相当ノ診察料ヲ受クベシ」と定められ、医薬分業は明確に規定されていた。しかし明治22年の薬品営業並びに薬品取扱規則付則には「医師ハ自ラ診療スル患者ノ処方ニ限リ自宅ニ於イテ薬剤ヲ調合シ、販売投与スルコトヲ得」と骨抜き規定が入れられていた。

 戦後のGHQの指導により、昭和24年に医薬分業の法的な強制導入が持ち上がり、日本薬剤師協会と日本医師会、日本歯科医師会との間で激しい論争があった。国会で医薬分業が成立したが、昭和26年にGHQのサムス準将が帰国することになり、日本医師会の猛烈な巻き返し運動が始まった。日本医師会は、法案成立の最終段階で「患者や看護人が特にその医師から薬剤をもらいたいと申し出た場合には医師が調剤できる」という付帯項目を追加し、実質的に医薬分業は阻止された。

 昭和25年頃から保険診療はようやく国民の間に広がり、普及とともに巨額な赤字を抱え込むことになる。そのため厚生省は保険料の引き上げ、乱診乱療の抑制などを講じることになった。保険診療は赤字続きとなったが、昭和25年の朝鮮戦争をきっかけに日本経済が好転し、黒字に転じることになる。その後、保険診療は日本経済の景気に左右されながら、開業医の診療収入に占める保険診療の比重が高まっていった。物価上昇に見合う診療報酬単価の値上げが当然とされ、それが成されない場合には医師の不満が膨らむことになった。

 昭和26年、悪質なインフレにより医師の診療報酬は目減りして医薬品は高騰。そのため診療報酬の値上げを求めて医師会側が全国一斉の保険医総辞退を表明した。一方、財源のない厚生省は「単価引き上げの要求には応じられないが、課税所得率を25%から30%までの間にすること」を条件に総辞退回避を医師会に求めてきた。

 つまり医療報酬を上げない代わりに税金をまけるという政策だった。当時の吉田茂首相と親しい関係にあった日本医師会の武見太郎によって、第1回目の保険医総辞退の動きは収拾した。昭和29年には、この医師優遇税制が法制化され、課税所得率は28%になった。つまり収入の72%が必要経費とみなされたのである。

 昭和30年の時点では、農業や零細企業に勤める人たちは保険に加入しておらず、国民の約3分の1に当たる3000万人が医療保険に未加入であった。また医療保険に加入していても、保険は本人に限定され、家族は保険の恩恵を受けられなかった。このため家族が病気になると、路頭に迷うことになった。

 当時の保険行政の目標は、国民皆保険に基づく新しい医療体制の確立であった。昭和31年1月、当時の鳩山一郎首相は施政方針演説の中で、「国民皆保険構想」を明らかにし、昭和33年に診療報酬点数が8.5%引き上げられ、1点単価は10円に固定された。

 昭和34年には医療金融公庫が創設され、開業医や民間病院への特別融資法案が成立。保険未加入の職場では強制加入が進んでいった。このように国民皆保険制度の環境作りが行われたが、当時はまだ貧困層が多く、医療費が払えないために、盲腸の手術を受けられずに死んでいった者が多くいた。

 昭和30年ころから日本の輸出が伸び、景気はよくなり物価は高騰したが、医療費は据え置かれたままであった。そのため医師会の不満が蓄積され、昭和36年に日本医師会の不満が爆発、保険医総辞退へと進んでいった。36年2月19日に一斉休診が行われたが、政府と日本医師会とのトップ会談で保険医総辞退は回避された。強烈な個性と政治力を持つ武見日本医師会長は保険医総辞退、全国一斉休診をちらつかせ行政側との交渉に当たった。

 紆余曲折を経て、すべての国民の医療費を保険で賄う国民皆保険制度が36年に設定され、以後、日本の医療は保険医療が基盤となった。しかし国民皆保険制度の歴史は「医療負担の押しつけ合いの歴史」でもあり、医療財源によって医療が変わる時代となった。

 国民皆保険制度は保険証1枚で、必要とされる医療を、いつでもどこでも、わずかな負担で誰もが平等に受けられることを保証しており、この制度は患者にとってまさに理想的な医療制度であった。病院にとっても、必要な治療費を保険組合が保障してくれるので理想的なシステムであったが、このシステムの最大の欠点は、医療費増大をきたすことである。医療費を保証する「出来高払い方式」は、医師の裁量で適切な治療ができるが、コスト意識が働かず医療費の増大をもたらした。

 昭和43年には国民健康保険の7割給付が実現し、48年には70歳以上の老人の医療費無料化が実施された。また同年から家族の7割給付が実現し、さらに自己負担額に一定額の上限を設ける高額療養費制度が創設された。このように安い費用で医療機関を利用できるようになった。患者の負担は減り、窓口負担が少なくなり、患者は医療のコストを実感せずに、医療はタダとする意識をつくっていった。

 医療の進歩とともに国民医療費は次第に増大し、昭和53年まで国民医療費は2けた成長を続けることになる。このように医療費は増大したが、当時の高度経済成長期と重なり、日本は医療費の伸びを吸収するだけの経済力を持っていた。日本が若々しい国力に支えられ、個人所得の伸びは医療費の伸びを上回っていた。

 昭和48年の第一次オイルショックを機に、日本経済は安定成長期へと入ってゆくが、同年の老人医療の無料化により、老人医療費は急激に増大し、国庫財政を圧迫するようになった。厚生省はその対応策として、医療費の総枠抑制、治療から予防への移動、医師数などの供給の見直しをあげた。

 高度経済成長終わると、サラリーマンの給料に連動していた保険料は伸び悩み、高齢化社会を迎えると、医学の進歩も加わり、医療費が増大することになった。そのため50年代前半から次第に医療費抑制政策が始まり、医療費は5%前後の緩やかな伸びになった。

 昭和53年に医師優遇税は廃止され、58年から薬価基準が引き下げられ、59年には健康保険法が改正され、健保本人は1割負担となった。老人医療費が増大して国の財政が苦しくなり、老人医療費を国が支えきれなくなり、そのため各保険組合から老人医療費の拠出金をとるようになった。

 昭和58年に老人保健法が改正になり、老人医療の3割を国と自治体が、7割を各保険組合の拠出金から支払うようになった。そのため老人医療費の負担が少なかった各保険組合は、日本の老人医療費の7割を負担することになり、保険組合は大打撃を受けることになった。

 この老人保健法の改正により、黒字だった保険組合も赤字に転落し、保険診療も財政的な制約を受けることになった。保険組合が黒字だったころは、余剰金で保健体育施設、保養所、旅館などを次々に建設して批判を受けるほどであったが、拠出金の支払いにより慢性的な赤字になった。

 平成6年の改正では、入院時の食事サービスに患者負担が導入され、家族負担であった付き添い看護制度が廃止された。医療機関を受診した場合には、患者は医療費の1から3割の自己負担分を払い、また1カ月に6万3600円を超えた医療費は、高額療養費として全額還元される仕組みになった。

 平成9年、医療財政を放置すれば、国民皆保険体制が崩壊しかねないとして、医療保険審議会は、制度改革と制度安定運営のための対策を小泉純一郎厚生大臣に提出。改革の焦点は診療報酬体系、薬価制度、高齢者医療制度の3点で、患者負担と保険料率の引き上げが提言され、国会審議と並行して医療保険制度改革協議会(座長・丹羽雄哉元厚相)を設けて法案修正の話し合いが進められた。

 厚生省は若者世代の患者負担を3割とし、大病院の外来では5割負担とする制度改革案を発表。また与党三党の改革協議会は、さまざまな改革案をまとめたが、各利害のため具体的改革案は先送りされた。

 日本は高齢者が増加し、それを支える若年層が減少し、医療財政が困窮してきた。高齢者は病院に行く頻度が高く、1人当たりの診療費は若い世代の7倍に達していた。生涯の医療費の約半分が70歳以上で使われ、高齢化社会が医療財源を圧迫させた。医療費を抑制しなければ、国民保険制度は破綻するため、保険制度は2年ごとに改正され、自己負担増加となった。医療費抑制が医療改定の目標となった。

 平成14年の医療改正で医療機関の診療報酬が初めて引き下げられることになった。また月に2回以上通院すると再診料が減額、医療安全対策、院内感染対策、褥瘡対策を実施していない病院は減額、一定の手術件数を満たさない医療機関の手術料が3割カットとになった。さらに患者の自己負担が2割から3割へ増額、保険料の自己負担分を増額(月収レベルから年収レベル)、6カ月以上入院している患者の自己負担増となった。

 国民皆保険制度の歴史は、厚生省、日本医師会、健保連の対立の歴史といっても過言ではない。高度経済成長が終わり、少子高齢化、高度医療により、必然的に医療費は増え続け、医療財源の不足が深刻となった。診療報酬の減額、患者の自己負担増となった背景には、日本の国の借金が約800兆円あるため、国が支出している国民医療費を減額する必要があったからである。

 医療保険制度が財政的な行き詰まりを見せ、社会保障としての医療が揺らいでいる。その原因として、国民皆保険の発足した昭和36年と現在とでは、疾患の内容が変化し、医療が格段に進歩したことである。昭和36年頃は疾患の多くは感染症で、感染症は治るか治らないか数日勝負の疾患で、医療費は高くなかった。しかし今日では、がん、心臓病、脳血管障害というように加齢が関与した疾患が大部分を占めている。

 がんは遺伝子の老化に伴う疾患で、心臓病、脳血管障害は動脈硬化という老化がつくる疾患といえる。このように医療の進歩が高齢者を増加させ、老化という不可抗力の疾患に膨大な医療費が必要となったことが、保険診療を支える医療財政を悪化させた。日本は長寿を望みながら、長寿による医療費増に苦しむことになる。