名張毒ぶどう酒大量殺人事件

名張毒ぶどう酒大量殺人事件 昭和36年(1961年)

 昭和36年3月28日の夜7時頃、三重県名張市の郊外にある葛尾(くずお)で、大量殺人事件が起きた。葛尾は三重県と奈良県の県境にあり、25戸の農家が一本道に沿って点在している小さな集落である。葛尾の小高い丘にポツンと寺が建っていて、村人たちはこの無住の寺を公民館として利用していた。人口101人の集落から5人の葬式が出るという大量殺人は、この無住の寺が舞台となった。

 事件の日、この公民館で、「三奈の会」(三重県と奈良県の頭文字)という生活改善と向上をかねた総会が開催されていた。三奈の会には32人(女性20人)が参加し、年に1度の総会を終えると、夜の8時頃から懇親会に移った。

 村人にとって、この懇親会は数少ない楽しみのひとつであった。机の上に折詰が並べられ、男性には清酒が、女性にはぶどう酒が用意され、前会長の音頭で乾杯が交わされた。異変が起きたのは、乾杯から10分ぐらい経ってからである。ぶどう酒を飲んだ女性たちが突然もがき苦しみ、嘔吐しながら腹痛を訴えた。驚いた男性たちは医師を呼びに走ったが、あいにく医師は往診中だった。

 医師が駆けつけたときには、ぶどう酒を飲んだ女性17人のうち5人が死亡していて、12人が重体になっていた。医師はかつて有機リン系農薬中毒の患者を経験していたので、すぐに有機リン系中毒と診断。アトロピンとパムによる治療を行い12人が入院となった。会場は騒然となり、通報を受けた警察が現場検証を行った。ぶどう酒を飲まなかった女性3人は全く異常がなかったことから、ぶどう酒に農薬が混入されていたと容易に想像できた。飲み残しのぶどう酒や嘔吐物から有機リン製剤の農薬が検出され、有機リン製剤は日本化学工業株式会社の「ニッカリン・T」とされた。

 この小さな集落で起きた大量殺人事件は、村人をパニックに陥れ、世間を驚かした。多くの人たちはこの事件を「第2の帝銀事件」と呼んだが、帝銀事件と大きく違うのは、犯人は村人の中にいることであった。

 警察はぶどう酒に接触した者を調べれば犯人逮捕は容易と見込んでいたが、予想とは反対に犯人は特定できず、物的証拠も発見できずに捜査は難航した。静かな集落に、多くの報道機関が乗り込み、報道合戦が加熱した。当初は死亡した奥西千恵子のエプロンのポケットに農薬を入れたと思われる小ビンが入っていたので、千恵子が犯人とされた。さらに夫の奥西勝(34)が、「死亡した愛人(36)に妻の千恵子が嫉妬して、無理心中を企てた」と証言した。新聞はこの無理心中説を報道し、事件は解決したかに見えた。ところが千恵子がぶどう酒を飲む前に、「今夜、あまり酒を飲んだらあかんと父ちゃんが言っていた」と証言する者が出てきた。

 毒殺事件の犯人は誰なのか。警察は村人の中に犯人がいると断定、ぶどう酒の購入や運搬に関与した3人を重要参考人として取り調べた。3人はいずれも犯行を否認したが、千恵子の先ほどの証言から、三奈の会の元会長である奥西勝が警察から激しい取り調べを受けた。

 奥西勝は狭い村の中で、妻以外の愛人と2年前から情交を結んでいた。未亡人である愛人のことが妻に知られ、夫婦仲は険悪になり、妻との言い争いが頻発していた。愛人は千恵子に責められ、そのため奥西に別れたいと言っていた。妻への不満と憎しみ、愛人の心変わりからやけ気味になり、「三角関係を清算して、すっきりした気持ちになりたい」。このことが奥西勝の殺人の動機とされた。

 奧西勝は妻と愛人が酒好きであることを知っていた。千恵子と愛人はすでに死亡しており、奧西は警察から連日激しい取り調べを受けた。任意の取り調べであったが、奧西は事件直後から連日ジープで警察に連行され、長時間にわたって追及され、自宅に帰っても警察官が泊まり込んで監視した。就寝から排便に至るまで警察官に監視され、ついに奥西勝は殺人を自白した。

 奥西勝は妻と愛人を殺すため、公民館で誰もいなくなったすきに、用意していたニッカリン・Tをぶどう酒に混入したと自白した。自白は事件から6日後の、4月3日午前3時40分であった。この自白した時間から分かるように、警察は深夜まで奧西を取り調べていた。さらに自白直後に警察で記者会見を行い、奧西勝本人に記者の前で犯行を告白させた。この記者会見は自白の任意性を世間に知らしめる警察の演出であった。奧西勝はこの自白について、犯人とされた妻の千恵子の「濡れ衣を晴らすためだった」と後に語っている。

 この事件は奥西勝による「妻と愛人の三角関係の清算」が犯行動機とされた。しかし小さな村落の葛尾では、既婚の男女が他の男女と自由な性的関係を持っていた。この村落では三角関係や四角関係は珍しくはなく、25戸の農家のうち7組が三角関係にあった。そのため自白した動機は、殺人の動機としては希薄だった。奥西勝は愛人のほかにも数人の女性がいて、死亡した妻の千恵子や愛人にも付き合っている男性がいた。

 田舎ののどかな村落では、全員が仲むつまじく暮らすイメージがある。ところがこの事件によって、性的に開放的な村落の内情が暴露され、平和に見える農村にも、世間の目から隠れた暗部があることを示すことになった。その意味でも、この事件が世間に与えたインパクトは大きかった。

 奥西勝はお茶を栽培していて、その消毒薬として「ニッカリン・T」を買い、この農薬をぶどう酒に入れたとされている。しかしその後の捜査で、ぶどう酒に混入されていたのはニッカリン・Tではなく、三共株式会社の「三共テップ」または富山化学工業株式会社の「トックス40」と分析された。これらの農薬は広く販売されており、「ニッカリン・T」を買った奥西勝が必ずしも犯人ではなく、ここに冤罪の可能性が出てきた。

 裁判では、奥西勝は一貫して無罪を訴え続けた。この事件は物的証拠がなく、村での男女関係は日常茶飯事だったことから、三角関係の清算という動機は弱いものであった。しかも「奥西と妻、愛人の3人はいつも連れだって仕事や映画に行っており、殺人を起こすような三角関係の苦悩という深刻さがなかった」、と村人たちが証言したのである。また事件2日前に奥西は、妻や愛人との情事に使うため、市内の薬局でコンドームを買っており、このことからも殺害の動機は希薄に思えた。

 昭和39年12月23日、津地裁の小川潤裁判長は「証拠不十分で奥西勝は無罪」とする判決を出した。犯人はぶどう酒の王冠を歯でこじ開けているが、王冠に残された歯型は奥西のものと断定できないこと。村人の証言が次々に変わったことを、「検察の並々ならぬ努力の所産」とした。奥西の自白は信用できず、犯行動機も納得できないとした。間接証拠だけでは奥西勝の犯行とは認定し難いとし、「疑わしきは罰せず」の常識に立った無罪判決であった。

 ところが昭和44年9月10日の第二審・名古屋高裁は、一転して奥西勝を死刑とする判決を出した。無罪から死刑へ判決は大きく変わったのである。名古屋高裁は、王冠の歯形は奥西のものと一致し、毒物を混入できるのは奥西だけで、自白は信用でき、動機も納得できるとして有罪となった。昭和47年6月15日の最高裁で死刑が確定した。

 この事件には物的証拠はなく、多くの疑問が残されている。まず死刑判決の最大の根拠となったぶどう酒の王冠について、奥西勝はぶどう酒の王冠を歯で開けたと自白し、その王冠が公民館の火鉢から発見されている。王冠の歯痕を鑑定した大阪大学教授と名古屋大学教授は、残された王冠は奥西がかんだ歯痕と一致するとして、この鑑定が有罪の決め手となった。

 これに対し弁護側が新たに鑑定を依頼した日大歯学部助教授は、歯痕の間隔を計測し直した結果、10カ所のうち9カ所が一致せず、最大で2.6ミリのずれがあると指摘。さらに学生10人に10個ずつの王冠を歯で開けさせる実験を行い、同一人が同じ歯で噛んでも歯痕の間隔が常に一致するとは限らないとした。つまり歯型は一致しても、一致しなくても、物証にならないとしたのだった。

 死刑判決では「奥西勝が公民館で1人になった10分間以外に、毒物を混入する機会はなかった」としている。しかしぶどう酒や弁当の購入を決めたのは当日の朝で、それを決めたのは三奈の会・会長のNであった。Nは農協職員Rに購入を命じ、Rは酒店で清酒2本とぶどう酒1本を買ってN宅に運び、Nの妻F子(事件で死亡)が受け取った。その後に、隣家の奥西がN宅にきて、夕方の5時20分頃、公民館に運んだ。

 事件直後の供述では、ぶどう酒がN宅に届いたのは夕方の4時前で、ぶどう酒はN宅に1時間以上も置かれていたのであれば、N宅でも毒を入れる機会があったことになる。ところが事件から2週間後、ぶどう酒が届いた時間について三奈の会・会長N、農協職員のR、酒店の店員の証言が4時前から5時に供述がいっせいに変わった。夕方の5時であれば、奥西がN宅に来た直前にぶどう酒が届いたことになった。そしてこの証言によって奥西犯人説が導かれた。

 津地裁の小川潤裁判長は「検察の意図的な供述操作と痛烈に批判し、奥西以外にも犯行機会はあった」とした。しかし二審では奥西以外に犯行の機会はなかったとした。弁護団は「奥西勝以外にも犯行の機会があった」と主張したが退けられた。弁護団は第6次まで再審請求を行い、奥西以外にも犯行の機会があったこと、ぶどう酒の栓は公民館に運んでくる前に開けられていた可能性があると主張したが、裁判所はそれを認めなかった。

 奥西勝はぶどう酒を運んだ公民館で10分間だけ1人になったとされ、5時10分から20分の間にぶどう酒に毒を入れたとされている。この10分間の証言は公民館とN宅を往復していたS子の証言に基づいている。奥西は公民館にぶどう酒を運ぶときS子と一緒だった。そのS子が公民館にぞうきんがないのに気づき、N宅に取りに戻り、また公民館に引き返した。このS子がぞうきんを取りにいっていた10分間が、奥西が公民館に1人でいた根拠であった。

 ところがN宅にいたY子は、「S子が最初に公民館に行ったあと、奥西を道で見た。奥西は牛に運動をさせていた」と証言、この10分間が本当なのか疑問が残った。Y子の証言が本当だとすると、S子の10分間の証言に疑念が生じることになる。また会の集合時間は5時となっていた。誰が入ってくるか分からない5時10分過ぎに、毒を入れたとするのは不自然であった。

 名古屋高裁での第6次再審請求において、名張署長の捜査ノート(中西ノート)が提出された。このノートは、当時の捜査会議の内容を克明にメモしたものであるが、事件4日後の記述で、「奥西勝は公民館でS子さんや別の主婦と一緒にいた」とS子が供述しており、もしそうならば「奥西の公民館で1人になったことはない」という主張が裏付けられることになる。S子は事件直後の新聞記者の取材でも同様の証言をしている。S子の供述が奥西の「空白の10分間」をつくり、それが奥西に死刑をもたらしたが、S子の供述が正しいのかどうか疑問であった。

 奥西勝は犯行前夜、竹を切って竹筒を作り、農薬ニッカリン・Tを竹筒に入れ、丸めた新聞紙で竹筒に栓をして、農薬のビンを当日の朝に名張川に捨てたとされている。公民館にぶどう酒を運び、1人になった10分間に竹筒に入れたニッカリン・Tをぶどう酒に混入し、竹筒は公民館のいろりで焼いたと自供している。

 もし竹筒を焼いたのならば、必ず有機リンが検出されるはずであるが、いろりの灰からは竹筒の燃えかすも、農薬の残留物も見つかっていない。ニッカリン・Tを燃やすと猛烈な悪臭が出るが、それに気付いた者はいない。また事件直後に名張川を大々的に捜索したが農薬のビンは見つかず、志摩の海女を総動員して名張川を再度捜索したが見つからなかった。投棄実験ではビンはすぐに沈むので、必ず見つかるはずであった。つまり自白を裏付ける物的証拠は何もないのである。

 懇親会でぶどう酒が出ることが決まったのは当日の朝で、それまでは予算の関係でぶどう酒は出ないことになっていた。事件当日になって農協から助成金が出ることになり、ぶどう酒が出ることになった。それなのに前日から犯行の準備をしていたという自白は奇妙であった。

 また懇親会で出されたのは白ぶどう酒だった。いっぽうのニッカリン・Tは赤色で、赤いニッカリン・Tを白ぶどう酒に入れれば、色の変化に皆が気付くはずである。ぶどう酒は包装されておらず、外から液体の色が見える状態であった。しかし生き残った者は、ぶどう酒は白かったと証言している。

 この事件は一審で無罪、二審で死刑という極めて異例の経過をとっている。日弁連は全面支援して再審請求を続けているが、再審への道は厳しい。奥西勝はいまも名古屋拘置所から無実を訴えている。奥西勝は葛尾のためのいけにえになったのか、この事件の犯人は必ずいるはずであるが、もし犯人が自殺目的で死亡した女性であったならば、犯人は永久に分からない。