吉田富三

吉田富三 昭和39年(1964年)

 吉田富三といえば医師ならば誰でも知っている世界的な病理学者である。昭和39年4月、国際的ながんの権威である吉田富三(東大名誉教授)が日本医師会の会長選挙に立候補した。吉田富三の立候補により、日本医師会の会長選は現職の武見太郎との一騎打ちになり、選挙の結果は、武見157票、吉田21票の圧倒的大差で、武見が会長に再選された。選挙戦では武見が勝つと予想されてはいたが、これほどの大差がつくとは誰も予想していなかった。

 吉田富三は落選を覚悟して会長選に立候補したのは、昭和36年9月に日本医師会の一斉スト宣言があり、病院ストなどから医療界そのものが大きく揺れ動いていたからである。吉田富三は実利主義の医学界に、医師のあるべき姿や理想を求めていたのである。

 吉田富三は出馬前の厚生大臣の医療懇談会で次のような発言をしている。棚を吊ることを命じられた大工が旦那(だんな)の前に出て、「旦那のお指図書きには、釘は5本まで許すと書いているが、7本使うことを許してください」といった。旦那は「なぜ7本必要か。その理由を申してみよ」という。大工はその理由を説明するが、旦那は「いや釘は5本に決まっている」と言い切ってしまう。

 吉田はこの大工の姿が今の医師の姿ではないかと述べている。つまり現在の医師は行政の奴隷になり下がっていると言いたかったのである。また全体主義の国ならともかく、自由主義の国で医療費がタダというのは間違っている。さらに医療問題の枝葉ばかりを議論していれば、心や血の通らない医療になってしまうと発言している。吉田は医療の本質に迫る議論を公行い、医療そのものを抜本的に改めたかったのである。

 この吉田の姿勢は、自分たちの考えを代弁しているとして、全国の医師会員たちに熱狂的に受け入れられた。しかし病理学者で、臨床の場を知らない吉田に開業医の実質的賛同は少なかった。

 武見と吉田の医療への考えは本質的には似ていた。吉田は医師の立場を「官僚による統制医療から、古き時代の自由な医療に戻したかった」が、武見は「官僚を利用しながら、医療をよい方向に向けよう」としていた。この医師会長の選挙によって、武見は長期会長の座を確実にした。

 病理学は組織標本から病気を診断する分野と思われがちであるが、かつての病理学は実験病理学が主であり、動物実験から病気解明を求める学問であった。大正4年に山極勝三郎(日本の病理学の父)がウサギの耳にコールタールを塗り、世界で初めて扁平上皮癌を作ることに成功。昭和7年に吉田富三がアゾ化合物をラットに食べさせ,世界で初めて人工癌(肝癌)を作った。昭和13年に長崎医科大学に赴任、地道に研究を続けて、昭和18年には移植可能な「吉田肉腫」を発見している。吉田肉腫とはラットの腹水中に浮遊するがん細胞で、このがん細胞を次のラットの腹に注射すると、そのラットの腹にもがん細胞が浮遊して増殖しすることで、吉田富三はがん細胞の移植に世界で初めて成功したのである。吉田肉腫より研究者たちは同じがん細胞だけを自由に扱えるようになり、吉田肉腫はがんの研究にとって欠かせない材料となった。吉田富三は国内外の研究者の要望に応え、吉田肉腫を惜しみなく分与した。

 さらに吉田はがんの本質を明らかにして日本初の制がん剤(ナイトロミン)を開発している。このように吉田富三は世界の癌研究の最先端の病理学者で、文化勲章、日本癌学会会長という輝かしい業績の持ち主である。明治36年に福島県浅川町で生まれた吉田富三は、北里柴三郎、野口英世に匹敵するほどの国際的医学者であった。昭和48年に70歳で死去するが、故郷の福島県石川郡浅川町に吉田富三記念館が建てられている。