前がん状態

前がん状態 昭和39年(1964年)

 昭和39年9月25日、東京・築地の国立がんセンターに「慢性咽頭炎」で入院していた池田勇人首相の病名が国立がんセンターの久留勝院長によって発表された。池田首相の病名は下咽頭がんであったが、院長が行った記者会見では、「乳頭腫という腫瘍で、がんではない」と述べられた。

 記者団の追及に、「病理学的にはがんではないが、前がん症状で、放っておくとがんに発展する可能性が高い」と説明した。この前がん状態という言葉は、それまで聞き慣れない言葉であった。それもそのはずである。前がん状態という言葉は、当時池田首相の側近だった鈴木善幸の造語だった。鈴木善幸は、がんというわけにはいかないし、何も発表しないわけにもいかない、そのため医師団と相談し、鈴木善幸が「前がん状態ではどうか」と頼んだことを後に語っている。当時は、がんの告知は行わないのが普通であった。しかしテレビでこの記者会見が報道され、病室のテレビで院長の会見を見ていた池田首相にとっては告知以上の結果となった。

 この前がん状態という造語は非常に便利な言葉であった。正常な細胞であってもいずれがんになるのだから前がん状態と言える、また本物のがん細胞でも患者の不安を取るために前がん状態と説明することも理にかなっていた。そのため前がん状態という言葉は今でも使われている。

 池田首相は東京オリンピックの開会式を病院から出席、がんセンターで放射線療法を受けながら東京オリンピックの閉幕を見届け、これを花道に昭和39年10月25日に辞意を表明した。11月9日に佐藤栄作を後継総裁に指名して12月にがんセンターを退院。首相のがんは食道、肺に転移していて、翌40年7月29日に東大病院に再入院となった。8月4日に切替一郎教授によって喉頭がんの手術が行われたが、突然、胃から大出血を起こし、昭和40年8月13日午前零時25分に死去、65歳であった。

 池田首相は広島県の造り酒屋の生まれで、豪放で率直な性格であった。吉田茂門下の吉田学校の優等生で、所得倍増政策を唱え日本に高度経済成長をもたらした功労者である。昭和25年3月の通産大臣のとき、「中小企業の1つや2つの倒産もやむを得ない」と発言して問題となった。昭和24年2月16日、1年生代議士でありながら、第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢され、第4次吉田内閣では通産大臣を務めた。

 その間、「貧乏人は麦を食え」と発言し、波紋を引き起こした。実際には参議院法務委員会で「所得に応じて、所得の少ない人は麦を食う。所得の多い人は米を食うというような経済原則にそったほうに持って行きたい」と述べたのであるが、「貧乏人は麦を食え、は失礼だ」と朝日新聞の投書欄に載り問題になった。池田首相の発言は極めて正論であるが、この発言で辞意に追い込まれた。ほかに「正常ならざることで倒産し、自殺があっても気の毒だがやむを得ない」などのマスコミが喜びそうな発言があった。

 昭和35年7月に首相になると、それまでの岸政治のイメージを一転させ、庶民派を全面に出し、国民の関心を引き寄せた。「社会保障の充実、1000億円以上の減税、経済繁栄政策、この3つを必ず実行します。わたくしはウソを申しません」とテレビCMで演説。「わたくしはウソを申しません」が流行語となった。さらに、「経済のことは、この池田にお任せ下さい」などの名言がある。池田首相特有のダミ声は、国民に親しみを与えていた。

 池田首相が誕生するまで、国民は終戦による経済再生、安保闘争で疲れ切っていた。そのような時、「日本の国民所得はアメリカの8分の1、ドイツの5分の1、この国民所得を10年で倍にします」と池田首相は大見得を切ったのである。この所得倍増計画は分かりやすく、ウソかも知れないと思いながらも国民に夢を与えてくれた。

 10年での所得倍増計画であったが、実際には5年間で国民所得を倍増させた。フランスのド・ゴール大統領に「池田はトランジスタラジオのセールスマン」と言われるほど経済成長に尽くし、「池田財政」といわれる一時代を築いた。池田首相は官僚出身であったが、庶民的政治家として国民に人気があった。池田首相は、日本を欧米先進国と並ぶほどの経済大国の基盤をつくった。