保険医総辞退

【保険医総辞退】昭和26年(1951年)

 昭和24年から25年にかけ、極度のインフレと失業が日本を襲った。税収は落ち込み、国家財政は極端に悪化していた。医療に関する診療報酬は23年から据え置かれ、保険組合からの支払いも遅延していた。

 開業医の生活も他の職業の人たちと同様に苦しいものになっていた。さらにレセプトの審査や課税が厳しくなり、医師会会員の不満が高まっていた。物価は急上昇し、据え置かれた保険診療では医薬品の高騰に追いつけなかった。

 各地の医師会では不満を訴える大会が開かれ、医師会員たちは3年間据え置かれていた診療報酬単価の引き上げ、制限診療の撤廃、収入への免税を訴えた。この日本医師会の闘争は、後の昭和36年に行われた保険医総辞退とは異なっていた。日本医師会の主張はいわゆる労働闘争であり、当時吹き荒れていた左翼的労働運動のひとつであった。

 日本医師会は、昭和26年10月19日、総評、総同盟、全国農業組合、日本生協連など16団体の支援を受け、この問題の突破集会を開いた。日本医師会は集会で社会保険単価引き上げを目指し、12月3日から全国一斉に保険医総辞退を実施することを決議した。

 国会では日本医師会の主張が認められ、保健医療費に国庫負担を講ずる決議が採択された。これを受け、厚生省は診療単価を1円50銭(15%)引き上げることで一応の決着がみられた。しかし15%の引き上げでは少なすぎると医師会内部の不満は大きく、この日本医師会の混乱を収拾するため、谷口弥三朗会長は辞任することになった。

 日本医師会の医療費引き上げ交渉と並行して、当時の武見太郎は医師会執行部ではなかったが、池田勇人蔵相(後の首相)と会い独自の交渉を行った。国家財政が苦しく国に医療費を払う財源がないならば、開業医の税金を安くする、いわゆる医師優遇税の交渉を行った。武見太郎は、開業医の収入の72%を必要経費とする医師優遇税に成功し、谷口会長の辞任によって、田宮猛雄会長、武見副会長のコンビが復活することになった。