人工腎臓と腎移植

人工腎臓と腎移植 昭和30年(1955年)

 昭和30年、第14回日本医学会総会で、群馬大学医学部第二外科の渋沢喜守雄教授と丹後淳平が「犬の腎臓を摘出し、人工腎臓を用いた実験成績」を発表した。この人工腎臓を用いた動物実験は日本で初のことであった。

 腎臓は体内の老廃物を尿として体外に排泄するため、腎臓が障害を受けると体内に老廃物が蓄積し、腎不全から尿毒症になり死に至る。人工腎臓とは血液中の老廃物を腎臓に代わって取り除く装置で、いわゆる血液透析(人工透析)のことである。

 世界で初めて人工腎臓の動物実験が行われたのは大正13年のことで、人間の腎不全の治療に応用されたのは、昭和20年にオランダのウイレム・コルフ教授が人工腎臓を完成させてからである。コルフ教授の人工腎臓は、セロハンのチューブを回転ドラムに巻き付け透析液に浸したものであった。患者の血液をチューブに流し、老廃物を透析液にしみ出させ、きれいになった血液をチューブの末端から静脈に戻る仕組みであった。

 人工透析が進歩したのは朝鮮戦争のときである。負傷したアメリカ兵がクラッシュ・シンドローム(挫滅症候群)を引き起こした際に、その治療として用いられた。クラッシュ・シンドロームとは筋肉が長時間圧迫されると筋肉細胞が壊死を起こし、筋肉からミオグロビンが大量に遊離して、腎臓の尿細管を詰まらせ一過性に急性腎不全をきたすことである。第二次世界大戦のロンドン空襲の際、クラッシュ・シンドロームによる多数の犠牲者を出し、一過性の急性腎不全を脱すれば回復することが分かっていたため、人工透析の実用化が急がれたが、当時の人工透析は急性腎不全の一時的な救命的治療であった。

 その後、人工透析の改良は進み、慢性の腎不全患者にも使われるようになり、日本では昭和42年に医療保険の適応になった。しかし、患者の負担が月30万円と高額だったため普及せず、また昭和45年の時点で人工透析は日本には666台しかなかった。人工透析はまだ一般的治療とはいえず、「金の切れ目が、命の切れ目」「先の患者が死ぬのを待って、治療を受ける」状態であった。

 昭和47年6月、川澄化学工業が人工透析の国産化に成功。本体と血液回路はプラスチック製で、透析膜はセルロース系のセロハンを使用し、価格は1万5000円であった。翌48年に人工透析が全額公費負担となって、透析患者は飛躍的に増えることになる。昭和51年にはセロハンから安全性を高めたホロファイバー(中空糸)に変わり、このころから透析患者の長期生存例が多くなってきた。

 血液透析を必要とする患者は年々増え、最近では年間約1万人ずつ増え、平成22年の血液透析患者数は約29万人に達している。血液透析患者が増加したのは、糖尿病の合併症である糖尿病性腎症が増加したからで、血液透析を受けている患者の半数は糖尿病による腎不全患者である。血糖コントロールが悪いと、糖尿病の発病から10年で腎症が発症するとされている。

 透析患者の10年生存率は42.3%で、人工透析が血液透析の95%を占め、残り5%は腹膜透析である。腹膜透析は患者自身の腹膜を利用して、腹腔に一定時間透析液を入れ、過剰な水分や老廃物を透析液に移動させ、その透析液を体外に排出させる方法である。なお日本の透析患者は、世界の全透析患者の約3分の1を占めている。

 このように血液透析、腹膜透析療法が行われているが、それらは腎不全患者への対症療法であって、腎不全の根本療法ではない。腎不全の根本療法は腎臓移植であるが、残念ながら腎移植は平成元年の838人をピークに年々減少傾向にある。

 腎移植の成功第1例は、昭和29年12月23日、アメリカのブリガム病院(ボストン)でマレーらによって行われ、腎提供者と腎受腎者は一卵性双生児だったため拒否反応が起こらなかった。この成功から一卵性双生児間の腎移植が欧米で次々と行われた。その後の腎移植の歴史は、免疫抑制剤の開発とともに歩んだといえる。昭和33年に全身放射線照射が応用され、翌年にはメルカプトプリン(免疫抑制剤)が開発され、昭和37年にはアザチオプリン(免疫抑制剤)がイギリスのマーレイらによって応用され、アザチオプリンとステロイドの使用が腎移植の標準的療薬となった。マーレイはこの功績により昭和38年にノーベル賞を受賞している。

 昭和33年、J・ドーセ(仏)、B・ベナセラフ(米)、G・スネル(米)は血液中の白血球の表面に存在する抗原が拒絶反応と強く関係することを発見し、主要組織適合抗原群(HLA)と命名した。昭和39年にテラサキ(米)、アンブルジェ(仏)らが腎移植にHLAを適合させると移植成績が良くなることを発見し、それ以来、HLA適合性検査は腎移植にとって重要な検査となった。この主要組織適合性抗原の遺伝子群は、ヒトでは第6染色体に存在することが分かっていて、J・ドーセら3人は「生体の免疫反応における遺伝学的研究」が高く評価され、昭和55年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

 昭和50年、スイスのサンド社が真菌から免疫抑制剤サイクロスポリンを開発し、腎移植だけでなく心臓、肝臓の移植においても応用され、臓器移植は飛躍的に進歩した。

 日本最初の腎移植は、昭和31年、新潟大学の楠隆光教授らによって行われた。急性腎不全の患者の大腿部に突発性腎出血で摘出した患者の腎臓を移植したもので、救命のための一時的な移植であった。慢性腎不全患者の永久生着を目指した腎移植は、昭和39年、東大の木本誠二教授が夫婦間で行っている。この移植は、日本で初めての本格的な腎移植となった。免疫抑制剤の改善、組織適合性検査の進歩により、腎移植の成功率は高まっている。

 昭和53年から腎移植は保険の適応となっているが、腎移植は年間500人程度と低迷している。これは腎臓の提供者が少ないせいである。腎移植は提供者の死後腎臓でも移植が可能なので、脳死の問題とは無関係であるが、それでも腎臓の提供者は少ない。腎臓は2つあるので生体移植も可能であるが、生体移植もあまり行われていない。

 腎移植が少ないのは、腎臓を提供しようとする善意ある日本人が少ないのではなく、善意ある者の善意を評価しないからであろう。金銭であれ、名誉であれ、善意を評価せずにボランティア精神に頼るだけでは腎臓移植は停滞するだけである。また移植のために努力をしても、医師に何ら評価がなく、問題が起きれば責任だけを追及されるのでは、医師の腎移植への熱意もそがれてしまうのも仕方ないことである。